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「ブレスをめぐる随想」-目次

はじめに

第1章  事例
1  我が学生時代の体験
2  オーケストラの現場での困惑
3  コンクール審査員としての体験
4  レッスン室での当惑

第2章  吸気主動の概念
1  誤った呼吸法による典型的な症例
●悪循環の始まり
●吸うとき
●吐くとき
2  声楽家、柴田睦陸の指摘
3  吸気主動の実践
●ロングトーンの理念
●吸気と姿勢
●拮抗状態から音のスタート
●息の中盤と終盤
●吸うための筋肉の認識
●息の柱
4  サクソフォーンの事情

第3章  呼吸法指導の過去と現在
1  戦前の指導
●吹奏楽界の先駆者、山口常光の著作から
●クラシック・サクソフォーンの先駆者、ラリー・ティールの指摘
2  現在の指導
●吹奏楽雑誌の誌上レッスン
●教則本

第4章  補遺
1  日本の伝統音楽の発声
●米山文明の指摘
●「梁塵秘抄」から
2  ウサギ跳びと腹式呼吸

おわりに

参考文献および引用文献



「ブレスをめぐる随想」-雲井 雅人-


はじめに
声技の悲しきことは、我が身崩れぬる後、留まることの無きなり。
その故に、亡からむ後に人見よとて、未だ世に無き今様の口伝を作り置くところなり。
後白河法皇(梁塵秘抄口伝集より)

小論は、管楽器演奏法の根幹をなすテクニックのひとつである呼吸法に関して、「吸気主動」という概念から私なりの考えを展開しようとするものである。私はサクソフォーン奏者であり、主に自分の演奏および教育経験に即してこの論を展開するが、他の管楽器を専門とされる方にも何らかの参考にして頂けるものと信じる。種類の異なる楽器のあいだにも、呼吸に関して共通の感覚が存在するという立場で論を進めていきたい。
文章で呼吸のことを表現するのは非常に難しく、ややもすると誤解を招きやすい領域であることは承知している。虎の尾を踏むことになるかもしれぬとの危惧もあるが、あえて小論を起こそうと思い立ったのは、いくつかの忘れ得ぬ出来事があったからである。以下にその事例を記したい。

第1章 事例
1. 我が学生時代の体験
1982年(昭和57)12月14日、大阪・毎日ホールで「第51回日本音楽コンクール入賞者発表演奏会」が行われた。この年は、声楽、ヴァイオリン、管楽器、ピアノの4部門の入賞者計12名が出演した。管楽器部門の入賞者として出演した私は、ここで忘れられない体験をした。そしてそのことが、私のそれからの音楽的方向に大きな影響を与えることになった。
この演奏会の最後に出演したソプラノ釜洞祐子(声楽部門第1位)の歌唱を聴いて、私は大きな感動を覚えた。それと同時に、つい今しがた自分のした演奏が、急に無価値なものと感じられるようになったのだった。自分が同じステージに立っていて良いものだろうかとさえ考えた。感動と羞恥が入り交じった複雑な気持ちであったことを覚えている。
彼女の歌を聴きながら、私はとっさにメモを取っていた。それが今も手元にある。内容は以下のようなものである。
・いつも心がこもっていて、音、フレーズがはち切れそう。
・心理的裏付けがある感じきったフレージング。
・集中力、熱狂、陶酔、放心。緊張と弛緩。豊富なニュアンス。極端な柔軟さ。
・楽に響く、通る声。音色の変化。
・よくコントロールされて柔らかく心のこもったpがあってこそ、ffも映える。
・全体の見通し。知性的で血の通った解釈。真剣なステージ。
彼女はなぜこんなに素晴らしく、自分はなぜこんなにもみすぼらしいのかとの思いが、私を揺さぶった。今このメモを読み返してみて、私が現在自分の楽器で実現しようとしていることの原点が、ここにあったのだということを再確認した。

2. オーケストラの現場での困惑
サクソフォーンは、オーケストラに定席のない楽器である。この楽器が含まれる作品がプログラムに上るときに、サクソフォーン奏者はエキストラとして出演する。私はオーケストラ内の奏者として、これまで数多くの経験を重ねてきた。そこは自分の実力が試される場であり、シンプルな事を良い趣味で確実に行うことが求められる。そのことが達成できたとき、自分は単なるエキストラではなく、オーケストラの一員として芸術作品の再現に関わったという充実感を味わうことができる。
オーケストラの仕事を始めてしばらくたったころ、私は自分の音に違和感を覚えるようになった。自分の音が周囲の管弦楽器と溶け合わないのだ。また、音の出だしが怖い、ピアニッシモが怖い、タンギングが汚い、音程が決まらない等々、演奏家としてのごく基礎的な技術に自信が持てないことに悩み始めた。
サクソフォーンのリサイタルやコンクール等で演奏される曲は、極端に速いパッセージ、ハイノート、大音量等の一見複雑で高度なテクニックを要するものが多い。私もそのような作品をなんとか吹きこなしながら、いくつもの試験やコンクールをかいくぐってきた。しかし、オーケストラの現場では、ソロで身につけたそのような技術は通用しなかったのである。ごくシンプルな事をふさわしいスタイルで行うことが最も大切であると、思い知らされたのだ。
そのころの私は、日々の仕事は何とかこなしつつも、自分の音が美しいとは思えなくなっていた。自分の奏法を見直し、再構築する必要に迫られていた。その要点は、リードやマウスピースにあるのではなく、アンブシュアでもない。ましてや楽器のせいなどでもないことには気付き始めていた。

3. コンクール審査員としての体験
1999年11月、第16回日本管打楽器コンクールが開催された。この年はオーボエ、サクソフォーン、トランペット、打楽器の4部門により行われた。私は審査員としてこのコンクールに関わることとなった。サクソフォーン部門の参加者は226名であり、第1次予選は3日間にわたり審査された。
この第1次予選の審査を通じて、私はある奇妙な現象に気づいた。それは、ステージ上での各奏者のチューニング時の音色と、楽曲演奏時の音色の余りにも大きい隔たりである。チューニング時にはそれぞれ、デリケートかつ無理のない美しさをたたえた音色であったものが、その後に引き続く楽曲(課題曲:イベール作曲コンチェルティーノ・ダ・カメラから第1楽章)の演奏では、貧しい響き、粗暴な音色、繋がらないレガート、不正確な音程の連続という現象が数多く見受けられたのである。
いかに長時間大人数の演奏を審査のために聴かねばならぬとはいえ、一人一人の奏者に対する興味と期待は、その都度新鮮なものである。美しいチューニングの音は、その後に続く楽曲の演奏に対する期待を高めてくれる。ところが、その期待を全く裏切るような演奏が非常に多かった。
明らかに音楽的センスの感じられない演奏は別としても、弱音では自然に美しく響く音の持ち主が、強音で急に響きを失い音が遠く感じられるようになる。あるいはまた、中庸な音量では輝かしい音色を持つ奏者が、弱音の場面で突然生彩を欠いてしまう。指はよく動くのに、ゆっくりした旋律ではまるでレガートが繋がらないというようなことがしばしば起こった。解釈の面で冴えを見せてくれる奏者にも、同様のことは起こった。このことは私の心に強い印象を残した。当時の私の審査メモによれば、参加者の8割以上がその轍を踏んでいた。
チューニング時と楽曲演奏時の音色に隔たりがある理由は、以下のように推測できる。チューニング時においては、音はほぼ無意識のうちにリラックスして発せられているのに対し、楽曲演奏時は、長期間にわたる意識的な練習によって作り上げられた、「さあ吹くぞ!」という意図的な発音を行うようになっているためであろう。そのことから私は、自らの上達を願い良かれと思ってする意識的な練習の中に、何か問題があるのではないかと感じた。
この現象はサクソフォーン特有の現象にとどまらない。また音楽学生に限ったことでもない。プロのリサイタル、大学の定期実技試験、学外のオーディション等で他の管楽器を聴く機会はしばしばあるが、同様のことはありふれて見受けられる。いったい、なぜこのような現象が起きるのであろうか。

4. レッスン室での当惑
 
私は、大学でのレッスンや各地での講習会の場において、生徒や受講生に対し、いつもブレスの重要性について伝えようとしている。後述する「吸気主動」の技法をかみくだいて、まず楽にたくさんの空気を吸ってもらおうと試みるのだが、そのとき必ずと言っていいほど突き当たる壁がある。それは「腹式呼吸」という使い古された、いささか厄介な概念の存在である。
 管楽器を演奏するうえで呼吸法がもっとも重要な基礎的テクニックであることは、どの生徒とも意見が一致するが、問題はその解釈にある。彼らの多くが、息を吸うときに甚だしい空気の摩擦音をたてながら、力を込めつつ腹をふくらますのである。なぜかこういう傾向は、真面目な性格の生徒に多く見られる。どういう考えで息を吸っているのかと彼らに訊ねれば、「腹式呼吸で腹に息を入れている」という答えが返ってくる。
腹式呼吸という言葉ほど、一流の声楽家や管楽器奏者が実践している状態と、各地の中学校や高校の吹奏楽部で昔から言い伝えられている教え方の、かけ離れたものはないだろう。一流の演奏家の多くにおける「腹式呼吸」とは、「吸気主動」のブレスのことであり、吹奏楽部における「腹式呼吸」とは、「腹をふくらませて息を吸い、へこませて息を吐く。このとき肩を上げてはならない」あるいは「腹に息を入れ、腹筋に力を入れて吹く」という呪文のごとき言い伝えなのである。この言い伝えが残っている中学校や高校は、決して少なくない。私の卒業した学校もその例に漏れない。
管楽器専攻生の多くは、中学校時代の部活動で楽器を始め、主に顧問の教師や上級生もしくは卒業生から手ほどきを受ける。その時に、腹式呼吸の重要性をたたき込まれるのが常である。全国各地から集まる数多くの音楽大学生に尋ねると、指導された内容は「特に何も教えてもらわなかった」というものの他は、「腹をふくらませて息を吸い、へこませて息を吐く。このとき肩を上げてはならない」というものにほぼ一致している。この考え方に基づいて、吹奏楽部の練習では腹筋運動なども取り入れられることが多かった。私自身もそのように教えられ、音大生時代に至るまでかなり長い間そのように実践してきた経緯がある。
音楽大学に進もうとするほどの若者は、人一倍楽器が好きで練習熱心な者が多い。始めたばかりの頃は、指導してくれる顧問教師や先輩の言葉を真剣に聞き、早く上達したいと願って努力したことだろう。それだけに、間違った方法で固められた奏法はなかなか矯正できないのだ。私も、この方法があまりに深く染みついていたので、長い間自分の癖に気付くこともできなかった。そのことによって私は、自分自身の演奏が袋小路に入り込んでいただけでなく、教師として誤ったことを生徒に強いていた苦い過去を持つ。
いったい、なぜこのような混乱した「腹式呼吸」の考え方が全国に広まったのであろう。それがいつまでも生き残っているのはなぜであろう。

第2章 吸気主動の概念

1. 誤った呼吸法による典型的な症例
●悪循環の始まり  
私は、【我が学生時代の体験】および【オーケストラの現場での困惑】で、かつての自分の演奏の未熟さを、【1.3.コンクール審査員としての体験】では、誤った意識的な練習法がかえって音を悪化させている可能性を指摘した。私は、呼吸法がその大きな要因であると考えた。
この部分をなおざりにして、楽器、マウスピース、アンブシュア等をいじってみても、何ら問題の解決にはならない。かえって、こじらせるばかりである。ますます、煩瑣な小細工の連続という迷路に入り込んでしまうことになる。どこまで行っても解決の糸口はない。最悪の場合、いつの間にか美醜の感覚が鈍磨して、とんでもない音を嬉々として振り撒く狂騒状態ともなりかねない。
以下に、その典型的と思われる症例を再現してみることにする。そのモデルには、かつての私自身も含まれていることを申し添えておきたい。
●吸うとき
管楽器奏者の中には、「腹に息を入れる」という感覚的な言い方(それ自体に罪はない)に愚直に従って、お腹が大きくふくらめばたくさん息が吸えているかのように錯覚してしまっている人々がいる。この方法だと、胸郭が大きく拡がることがないため、実際には肺いっぱいに空気を充満させることはできない。大きな空気の摩擦音をたてて息を取ることも、彼らの特徴である。景気良く大きな音を立てて息を吸い込むことで、たくさん吸えたかのように勘違いをしているのである。もちろん、それが逆効果であることは言うまでもない。
「わざと」腹をふくらますという不自然な行為により、息を吸う時点ですでに上半身に不必要な力が入ってしまっている。そのため、吹く前から腕、肩、喉、舌およびアンブシュアが固くなっている。この方法に陥っている人は、意識が下腹の方に行っているためか、演奏時に胸が落ちて骨盤が上を向いた独特の姿勢をしていることが多い。
●吐くとき
次に彼らは、「わざと」腹をへこませながら息を出す(音を出す)段階に進む。コントロールを欠いた粗暴な息がマウスピースに吹きつけられるわけだが、案に相違して必ずしも爆発的な音や汚い音が鳴るとは限らない。なぜなら、喉や舌によって息の通路を狭めたり、マウスピースを強く締めたりすることによって、器用に音質を調節しているからである。
一見何の問題もなさそうに聞こえることもあるが、音の伸びはない(そばではやかましい)。出だしは雑(舌の音もしくは息の音の予告付)。レガートはかからない(タンギングをしないというだけの似非レガート)。音色の変化はない(そもそも念頭にない)。音程の調節もままならない(楽器の弱点を丸出し。修正は主に指遣いに頼る)。弱音のコントロールは特に絶望的である(ディミニュエンドと共に響きが悪化)。狭い範囲ですぐに表情の変化が限界を迎えてしまう(本人は精一杯やっているつもり)等々。
ヴィブラートやタンギングがうまくいかないのは、顎や舌のせいばかりでなく、発音そのものが不自然なためであることが多い。そのことに気付かず強制的になされるヴィブラートやタンギングは、耳を覆わしめる。
彼らにとって演奏とは些末な調節の連続であり、そのため音楽の核心に迫ることは妨げられている。アンサンブルに心を砕くことも至難である。その結果として、私が管打楽器コンクールで数多く聴いたような演奏が生まれるのであろうと思われる。


2. 声楽家、柴田睦陸の指摘

柴田睦陸 しばたむつむ 1913(大正2)岡山〜1988(昭和63)東京 テノール歌手。1938年(昭和11)東京音楽学校本科卒業。35年以来独唱者として活躍。第2次世界大戦に従軍。52年二期会を結成、委員長、会長としてオペラ運動に寄与する。また東京芸術大学教授として後進の指導に当たる。 (平凡社音楽大事典による)

私は、【レッスン室での当惑】で、混乱した「腹式呼吸」の考え方が広まっている現状、それがいつまでも生き残っていることに対する疑問を呈した。このことに関して、日本声楽発声学会会長を務めた柴田睦陸が著した優れた文章が、「声楽ライブラリー 3 呼吸と発声」にあるので、その一部を引用したい。文中の「声楽」を「管楽器」に置き替えれば、彼が問題にしていることがそのまま、我々の問題でもあることに気付かされるであろう。彼の著作がひとつのきっかけで、私は吸気主動のブレスを実践するようになった。吸気主動という用語は、もともと彼の著作で用いられているものである。
「声楽技術にまぐれなし」 ・呼吸理論の不一致  
声楽の勉強に〈呼吸法〉の修得がどんなに大切なことであるかは、すべての声楽家や教師たちによって強調されてきた。しかしながら、それほど大切な呼吸法の実際についての理論が、必ずしも一致していないというのも事実なのである。議論が分かれている原因にはいろいろなことがあげられようが、決してわが国が声楽の後進国であるためのものではない。むしろ、欧米の先進諸国が現在でも不確定であるために、その影響でわが国でもいろいろな意見や方法があるのだと言えよう。いずれにしても基本的な方法について、全く相反する主張が現存することは事実であり問題なのである。(中略)
・声楽技術にまぐれなし  
どんなに技術はまずくても、人を感動させる歌が歌えるのが名歌手であることに異論はないが、方法に欠陥があっても結果がよい──ということは、まぐれ(偶然)か、特別な天才によってのみ可能なことであって、極論すれば無価値だとも言えるのである。私たちは〈闇夜の鉄砲〉のような偶然を期待して舞台や試験場に立つことは、正当を目指す人たちが絶対に考えてはならない一条だとしたい。
 私は人間という楽器を、声楽という目的のために、最高の機能を発揮させるには、その過程において、どのような意識が必要か、どのような訓練が必要かを考えて行かねばならないのだと思う。
・対立する呼吸理論──腹式呼吸をめぐって  
まず、相反する議論が、どのように併存しているかを考えてみたい。
間違った議論や間違った方法は、必ず消滅するはずであるが、久しいあいだ存在し続けているのは、前記(呼吸理論の不一致)の理由の他に、全く低次元であるが、呼吸法の認識、即ち、〈腹式呼吸〉という言葉の理解、解釈にあるように思われる。
〈腹式呼吸〉は声楽における呼吸の基本で、まずこの技術を体得しなければならないことは、初級学習者から教師に至るまで、誰もが一様に認めていることである。しかし、その実際となると具体的な方法論が幾種類もあって混乱の原因になっているのである。
2、3年前のテレビで、たまたま〈腹式呼吸〉に関する医師の解説をきいて、「間違いの元はこの辺にあるのだナ?」と思ったのだが、それによると、「腹式呼吸とは、〈腹をふくらませて〉肺に空気を入れることだ」とあったのである。
前述の相反する方法の1つがこの方法にあるので、布袋様のように下腹をふくらませ、出っ張らせて息を吸う──という方法である。この方法で指導された者は多いと思うが、私もまたその1人であると同時に、その方法に反対を称える者の1人なのである。 ─引用おわり─
まことに心強い言である。テレビでの腹式呼吸に関する医師の解説とは、おそらく健康法に関連した発言であったろう。いわく「深く呼吸することによって血中に多くの酸素を送り込む」、いわく「内臓を動かすことにより新陳代謝を促す」等の記述は、雑誌等でもよく見かける。私はこれを認めるにやぶさかでない。奨励されてしかるべきものと思う。
しかし、健康のための呼吸法と演奏のための呼吸法では、自ずから目的も違い、同一のものではあり得ない。演奏とは、スポーツ的と言っていいほど積極的でダイナミックな、筋肉の疲労さえともなう行為なのである。
こう考えてくると、管楽器を演奏するための呼吸法を同じ「腹式呼吸」と呼ぶこと自体が、混乱の原因かと思われてくる。さらに言えば、管楽器を吹奏する行為を「呼吸」と呼んで良いものかどうかさえ疑問に思われてくる。呼称の混同が、方法の混乱を生んでいるのかもしれない。さて、では何と呼べばよいのだろう。

3. 吸気主動の実践
●ロングトーンの理念  
さて、実際に音を出してみたいが、ロングトーンはどの音から始めるべきであろうか。私は、自分が最も美しいと思える音から始めるのが、肝要であろうと思う。それはけっして、最高音域や最低音域ではないだろう。ffやppでもないだろう。あるひとつの音に対して、ナルシスティックなまでの自信を持てるほどの音質を獲得することが、まず目標にされるべきかと思う(それを判別する耳の良し悪しの問題があるが、それはひとまず措く)。その響きをじっくりと全音域に敷衍して行くのが、ロングトーンの本道であろう。そこで獲得された音を、音階や練習曲によってさらに広く敷衍していくのである。
何の楽器によらず、名手が演奏しているところを見ると、実にたおやかな有り様である。単なる弛緩とは異なる、ある絶妙な均衡の中での安定感というものが感じられる。管楽器ではそれが、「吸気主動」という言葉で説明できるかと思う。
ここで、「吸気主動」のブレスとはどのようなものかを説明したい。あらかじめ注意を促しておきたいのは、言葉というのはどれひとつとっても曲解される可能性をはらんでいるものであるので、以下の私の文章を実践に移そうとされる場合には、なるべく正しい技術を身につけた指導者と共に試みられることを勧めたい。また、横隔膜をはじめとする解剖学的な筋肉の名称や働きについて解説するつもりはなく、その能力も私にはない。ここではあくまでも、演奏家としての実感を表現するよう努めた。ごく大ざっぱな感覚は、次の詩の如きものの中にある。

ぼくは三輪車で
急な坂道をくだっていくよ
スピードが出すぎないよう
ゆっくりと注意して

のぼり坂になっても
負けないようにこいでいくよ
止まってしまわないよう
しっかりと力づよく

●吸気と姿勢
息を吸うときは、空気を腹に入れるとか胸に入れるとかは考えずに、「スムーズにたくさん吸える」ということを最優先にする。
あらかじめ、胸がある程度高く保持され、肋骨は拡がり、胸郭が広く保たれた姿勢にする。肋骨とはいわば鳥籠のようなものであって、肺の容積はそれを取り囲む籠の大きさに比例するのだ。息を吸えば当然胸も腹もふくらむが、大切なのは、「力を入れてわざとふくらます」のではないということである。息を吸い込むというより、気圧の低い場所に空気が流れ込んでくる現象を思わせる。息を吸うプロセスにおいてもピークにおいても、腹は柔らかいままである。
良い姿勢とは、端的に言えば声楽家の姿勢である。体の前面も背面もスッと伸びて、胸は広々とし、からだ全体が上から軽く引っ張り上げられているような感じになっているのが望ましい。反り返るのではない。首、肩、腕、背中、腹には余計な力が入らないようにする。臀部はやや絞り気味にする。これは同時に、舞台映えのする美しい姿勢でもある。
●拮抗状態から音のスタート
当然のことながら、いっぱいに空気を吸った直後には、息は出ようとする力に満ち溢れている。それをそのまま楽器に吹き込めば、あっという間に息は尽きてしまう。ピアニッシモで長く音を延ばす際に、息を吐くための筋肉よりも、吸うための筋肉の方をより多く使っていることに気づいている人は多いだろう。歌や管楽器のブレスというのは、息が出よう出ようとする力を抑えながら(吸気努力を続けながら)コントロールするという、拮抗状態の中でなされているのだ。拮抗という言葉の語感が強すぎるなら、均衡を保った中でと言い換えても良い。
発音は、腹部の筋肉の適度な緊張がきっかけでスタートする。軽く咳ばらいをすると腹部全体の筋肉が大きく動くが、それに近い。「笑う」「泣き叫ぶ」「咳をする」「くしゃみをする」。触ってみれば分かるが、その時その時の場面で筋肉は無意識のうちに驚くほど躍動している。生きるために必要なこれらの筋肉の動きは、歌を歌ったり、舞台でセリフを言ったり、管楽器を演奏したりするときにも活躍するのだ。言い換えれば、呼吸に関して体がとっくに知っていた、楽に大きな力が出せるやり方を、楽器を吹くときにも行なえばよいのだ。しかし、これらの爆発的で不随意な動きは、持続的でコントロール可能なエネルギーに変換されなくてはいけない。そこにこそ職業的訓練を要す。ロングトーンの練習が重要である所以である。
楽器の抵抗とのバランスをも保ちつつ、けっして息を無理に押し出すのではなく、息の通路を狭めるのでもなく、拮抗状態の中で吸気努力を続けながら、持続的に息が解放されていく。これが、私の考える吸気主動の概念である。
●息の中盤と終盤
肺にたっぷりと空気があるあいだは、息が出過ぎないよう注意することは上に述べた。吹き始めてしばらくして徐々に肺の空気が少なくなってくると、今度は息を吐く努力も徐々に必要になってくる。吸気主動から呼気主動にシフトしていく段階である。そういう中で音を豊かなまま保つことを、「支え」と呼ぶ。ここでも、最後までなるべく胸は落とすことなく広く保つ努力を続ける。息が残り少なくなるにつれ、腹部の緊張が増していく。力を入れるのではなく、息と音を保つために「耐える」というのが実感である。音を長く豊かに伸ばした最後の段階では、ウエストに鉄の輪がはまったような緊張感さえ覚える。
名歌手が美しい声の響きを保ったまま長い旋律を歌うのをきいて、感嘆しない者はいないだろう。力んでいるわけでもなく、喉を締めているわけでもなく、高度にコントロールされた拮抗状態の中で合理的なブレス・コントロールを行っている賜物である。楽器のような道具を使わない、すなわち息を出すうえで声帯以外の何の抵抗装置も持たない声楽家にとって、吸気主動のブレスは舞台人としての死命を制する問題なのである。楽器という抵抗装置を用いる我々にとっても、これは必須の技術である。より良い響きを目指すなら、声楽家が声帯に対して為しているように、我々は楽器のマウスピースへこのようにして最適の息を運ぶべきなのである。
吸気主動のブレスがうまく行われるようになると、フレーズの間で軽くブレスを取るとき、空気は吸うものではなく自然に肺に戻るものなのだという感触が得られる。これは、ブレスを取るときには吐くための筋肉が一時休んで、水面下で働いていた吸うための筋肉の働きが表に出たことの証左である。
●吸うための筋肉の認識  
吸うための筋肉の働いている状態をはっきりと認識するために、以下のようなことを試みることが可能である。
これ以上吸えないというほど、ゆっくりとたくさんの息を吸ってみる。吸った空気を、唇や声帯を閉じることなく、肺の中に保つようにする。結局、それ以上空気は入って来はしないものの、体は息を吸い続けている(吸気努力を続けている)状態を保っていることに気づくであろう。数秒間その状態を続けると、胸腔(肋骨)を拡張(挙上)し続けようとしている筋肉の存在に気づくはずだ。この拡がろうとする力を絶えず保っているのが、「吸気主動」のブレスで活躍する筋肉群である。
●息の柱
息を吐いて楽器を「鳴らす」行為を言葉で説明するのは実に難しいが、上手く吹けている状態の感覚的な表現として、ここで「息の柱」という言葉について触れておきたい。「息の柱」という言葉は、ブレスのことを説明するときにしばしば使われる表現である。私の中では、「支え」という言葉とほぼ同じ感覚である。
楽器を吹いている時、息が効率よく音に変換されている場合には、息はいわば「柱」のような存在として体内にはっきりと感じられるものだ。肺の底から(感覚的には腹の底から。誤解を招きやすい表現ではあるが…)マウスピースの先端に至るまで、何物にも邪魔されることのない連続した空気のつながりができている感覚がある。息がリードもしくは唇の振動(音)に変換される際に、抵抗が発生する(この抵抗の大小が、楽器による吹奏感の違いの大きな部分を占めると思われる)。そのため圧縮された空気が、体内の息の通り道に充満しているのだ。息の「支え」とリードで生じた息の「抵抗」とは、絶妙のバランスで呼応している。楽曲を演奏する際には、表情に応じた過不足ない圧力の息が、その瞬間瞬間に最もふさわしい音を生みだして行く。
ここまでこう書いてくると、吸気主動のブレスとは大仰なもの、剛直なものとの印象を与えているのではないかとの危惧を抱く。だが、それは私の筆力が足りないのである。実際には、柔軟かつ躍動的な筋肉の働きによって、デリケートに伸び伸びとした発音が実現されているのだ。この感覚を言葉に置き換えるのは、何としても難しい。

4. サクソフォーンの事情  
サクソフォーンは、誰にでも音が出せる簡単な楽器と言われることが多い。この楽器の息の抵抗が少なく、発音が比較的容易なことは事実である。それは逆に、この楽器の難しさの一因でもある。無神経な吹き方をしてもそれなりの音が出てしまうというのは、奏者を容易に堕落させやすい。音のことはさておき指をさらうというのが、この楽器では当たり前になってしまっているように思われる。自分では吹けているつもりで、分不相応な難曲に挑んでいる光景はままある。また、音の研究をするのは良いが、方向を間違えて、塩を入れすぎて失敗した料理に、ならばと砂糖を加えてもっと取り返しがつかなくなったような状態に陥っている人も見受けられる。
サクソフォーンには「持ち替え」という問題もある。ソプラニーノ・サクソフォーンからバス・サクソフォーンまで、カバーする音域は非常に広い。金管で言えば、ピッコロ・トランペットからテューバまでの音域にほぼ匹敵する。当然、息の抵抗の差異は、同じ種類の楽器とは言えないほどに大きい。指遣いが共通なだけで違う種類の楽器と言っても差し支えないのだが、持ち替えは避けて通れない。それを可能にするためには、自分の中に各楽器の抵抗に釣り合った「支え」をしっかりと持っていることだと思う。
名手から感じられる「絶妙のバランス感」とは、言い換えれば「高度で意識的な不安定感」とイコールである。そのような、いわば良い意味での「頼りない」状態に耐えられない心性の持ち主は、性急に盤石の方法を欲して安直な道に流れやすい。今日まで呼吸法の問題では、「息をしっかり出す」ことにのみ感覚が集中されてきた傾向があるが、フルートやサクソフォーンのような比較的抵抗の少ない楽器にこそ、吸気主動のブレスの意義は大きいのである。

第3章 呼吸法指導の過去と現在
1. 戦前の指導 
●吹奏楽界の先駆者、山口常光の著作から

山口常光 やまぐちつねみつ 1894(明治27)壱岐〜1977(昭和52)東京 吹奏楽指揮者。1912年(大正1)陸軍戸山学校の陸軍軍楽生徒となり、17年戸山学校軍楽隊付となる。30〜31年(昭和5〜6)パリのギャルド・レピュブリケーヌ、ベルリン高等音楽学校などに留学。38年中支派遣軍軍楽隊長、42年戸山学校軍楽隊長。第2次世界大戦後も吹奏楽界の要職にあった。著書〈吹奏楽教本〉(1955、昭和30)、編著〈陸軍軍楽隊史〉(1968)などがある。 (平凡社音楽大事典による)

第2次世界大戦前の日本ではどのような指導が行われていたのかを調べようとして、戦前の管楽器雑誌及び教則本を調べてみた。今回は昭和10年ごろまでしか遡ることはできなかったが、長らく日本吹奏楽界の指導的立場にあった山口常光の、戦前から戦後にかけての著作に出会うことができた。当時の吹奏楽関係者にとって、彼の著作が与えた影響が非常に大きいものであったことは、想像に難くない。
以下に、彼の著した3冊の教則本を紹介する。これらを通読すると、当時も今も変わらぬ非常に有益な情報が含まれていることが分かる。それとは逆に、時代が変わりすっかり古びてしまった思想も当然のことながら見受けられる。ここでは、3冊の教則本から、呼吸法に関する部分だけを抜粋する。(旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。下線は雲井)

「信号ラッパ奏法」 1935年(昭和10)発行
 2. 喇叭奏法
 (6)息の取り方と出し方
 
一旦唇に当てた吹口は息を取る為に再び置きかえてはならない、息は口の両端から取る。
 
息を取るときは下腹をふくらませるのではない。反対に昇らせるのである、そして肺中に吸収した息を出そうとする刹那、腹は元の形に復し、緊縮しつつ肺の息を押し出すのである。
 
息は楽句に従って適宜に取る、短い楽句で余り度々息を取ってはならない。長い句ではそれだけに必要な息を取って置かねばならない。
 
呼吸を上手に調節することは大切なことでそれは楽句を充分に奏するのみならず肺を丈夫にする訓練ともなるのである。
「ブラスバンド教本」 1938年(昭和13)改訂再版発行
第二章 金属管楽器 (七)金属管楽器概説
息の取り方と出し方
吹口は一旦唇に当てたならば息を取る為に再び置きかえてはならない、息は口の両端から取るのである。
息を吸うときは舌は自然に引ける、そして下腹も上がってくる、此時肩を上げてはならない、上胸の方に息を吸うのである。息を吸ったならば次の瞬間にそれを出す用意をする、此時腹は元の形にかえる。肺中の空気を満たし、口を密閉しておく、そして舌を引くと同時に息を楽器中に入れるのである。
余り短い楽句で息を取ってはならない、息は楽句に従って適宜に取るのであるが、それは声楽と同様に、一句が充分長かったならば、それに必要な息を取って置くのである。
呼吸を上手に調節することは真に大切で、単に楽句を上手に奏するのみならず、肺を丈夫にする衛生の為にも必要である。

「吹奏楽教本」 1955年(昭和30)発行
 第二章 金管楽器 (七)金管楽器概説
 息の取り方と出し方
 
吹口は一旦唇に当てたならば息を取る為に再び置きかえてはならない、息は口の両端と鼻から自然に入るように取るのである。
息を吸うときは舌は自然に引ける、そして下腹に力をいれる。この時肩を上げてはならない、下胸の方に息を吸うのである。息を吸ったならば次の瞬間にそれを出す用意をする、この時腹はもとの形にかえる。肺中の空気を満たし、口を密閉して置く、そして舌を引くと同時に息を楽器中に入れるのである。
余り度々短い楽句で息を取ってはならない、息は楽句に従って適宜に取るのであるが、それは声楽と同様に、一句の長さに従って、それに必要な息を取って置くのである。
呼吸を上手に調節することは真に大切で、単に楽句を上手に奏し得るのみならず、肺を丈夫にする衛生の為にも必要である。 ─引用おわり─

昭和10年発行の「信号ラッパ奏法」と、昭和13年改訂再版発行の「ブラスバンド教本」における記述は、ほぼ共通している。後者が前者をさらに詳述しているのみである。注目すべきは、「信号ラッパ奏法」において著者が、「息を取るときは下腹をふくらませるのではない」とわざわざ最初に釘を刺していることである。これは、この本の出版時すでに軍隊のラッパ手たちのあいだでは、息を吸うときに下腹をふくらませる傾向があったことをうかがわせる記述である。
「息を吸うときは舌は自然に引ける」という表現は、声楽の世界で古くから言い習わされてきた「薔薇の香りを嗅ぐように」に近いものがある。つまり、スムーズに息が吸えるときは、咽頭が自然に下がった状態になっていることを指していると思われる。「肩を上げてはならない」は、上部(胸式)呼吸に陥らないよう戒めたものと思われる。
 昭和30年発行の「吹奏楽教本」になると、記述にいささかの変化が見られる。「下腹が上がってくる」というところが「下腹に力を入れる」に変化し、「上胸の方に息を吸う」が「下胸の方に息を吸う」と変化している。
前にも述べたように、言葉というのはどれひとつとっても曲解される可能性をはらんでいる。たとえば、「ブラスバンド教本」の中に「上胸の方に息を吸うのである」との記述がある。これを、下腹をふくらませることを戒め、上胸部を高く保持し胸郭を広く保つことを示唆した表現であると肯定的に取ることもできる。反対に、体全体を使っていないではないかという風に否定的に取ることもできる。「吹奏楽教本」の中の「下腹に力を入れる」と「下胸の方に息を吸う」という記述もやはり肯定的にも否定的にもとれる。
腹式呼吸というものを「腹をふくらませて息を吸い、へこませて息を吐く」ものだと頭から思い込んでいる人にとって、どういう説明も自説を補強するもののようになりかねない。いずれにしても山口は「腹をふくらませよ」とは一言も言っていないわけで、彼の著作から例の呼吸法が広まったとは考えにくい。すでに昭和10年以前に軍隊のラッパ手たちのあいだに、息を吸うときに下腹をふくらませる傾向があったとすれば、山口の著作もそうした流れを押しとどめることはできなかったのであろうか。

●クラシック・サクソフォーンの先駆者、ラリー・ティールの指摘

ラリー・ティール Larry Teal(1905〜1984) アメリカのクラシック・サクソフォーンの開拓者で、長年ミシガン大学の教授を務めた人物。代表的な著作に、The Art of Saxophone Playing (Summy-Birchard, 1963); Saxophonist's Workbook (University Music Press, 1954)がある。

次に、1940年(昭和15)の雑誌「ブラスバンド喇叭鼓隊ニュース」に掲載された記事を紹介したい。著者のラーリ・テイールとは、アメリカのサクソフォーン奏者ラリー・ティールのことである。この文章の原文および訳者は不明である。(旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。下線は雲井)
ラーリ・テイール「サクソフォーンの再認識」
(前略)サクソフォーンは一個の楽器としては、一つの決定的な相違点を除いた他は、他の木管楽器と非常によく似ている。唯サクソフォーンは円錐形のボーア(孔腔)の度合が遙かに極端である。此の相違点は音程を構成する上に最も大きな問題となるものである。同じく円筒形のボーア(孔腔を)有する楽器でも、他の楽器の場合はたとえばクラリネットの如く楽器自体の中に抵抗装置を持つもので、此の抵抗装置は吹奏者が音程を整調する上に助けとなるものである。然るにサクソフォーンは他に比べて遙かに平坦に出来ているために、奏者の口から出た空気がリード(簧)を越えて円柱形の空間を進む間に受ける抵抗は比較的に少ないのである。サクソフォーンは斯様な大きい、平坦な(抵抗の少ない)空間を有する為に、齊った滑らかな音色を出すために高度の呼吸調節が必要となるのである。サクソフォーンには正確な呼吸調節が必要だと言うのは主にこの理由に基くのである。
(中略)胸部で行う呼吸は普通「肋骨呼吸」といわれている.其れは肋骨間にある小さい肋間筋肉の作用によって、肋骨が伸張する理由による。横隔膜呼吸或いは「腹式」呼吸は、下腹を突き出して横隔膜を下げることによってなされる。吹奏楽器を吹くに必要な空気の量を得る為には、下部肋骨の伸張による呼吸法及び下腹部を突き出して胸床或いは横隔膜を下げることに依る呼吸法、この両種類の呼吸法を同時に営んで利用しなければならない。この混合呼吸法はセントラルブリーズィング(中部呼吸)と云われている。最大限の空気量が吸い込まれるように、胸床を下げ、下部肋骨を伸張させる後は、楽に空気を丸く吹き出し得て、十分音調を出すことが出来るのである。もし強く吹く必要のある場合は、何時も腹部から押し出すようにしなければならない。胸部筋肉を急に緊張させて、息を強くしようとすれば、息は上の方(上へ)と腹(下へ)との両方面に出て、努力に対する効果は半減する.恰度練り歯磨きのチューブの下の方を押さずして、真ん中を押した状態と同様な結果である。力は二分されてチューブの下の方も膨らむから全力量の十五パーセントは浪費されるのと同じ理論である。
最初の音を吹き出すには、その呼吸法は総て腹部筋肉を使ってなせば、呼吸の調節は上手に行われるものである。正しい呼吸調節法によって得られる利益は頗る広い。その中の重なるものの一つは、全身を楽に保つことが出来ることである。筋肉を無理に動かしまたは無理に音を出さんとすると、身体が硬ばり、指または首の筋肉までも硬くなり、最も大切な顔面筋肉、殊に唇まで硬直するのである。(後略) ─引用おわり─
日米開戦前夜の昭和15年発行の雑誌に、このような記事が掲載されていたことにまず驚かされる。ここでティールは、サクソフォーンが抵抗の少ない楽器であるが故に、高度の呼吸調節が必要であると説いている。また、「セントラルブリーズィング」という理にかなった呼吸法を提唱している。同時に間違った呼吸法の弊害も指摘している。「下腹部を突き出して胸床或いは横隔膜を下げる」という表記が気にならぬでもないが、全体としては、まことに行き届いた訳文といわねばならない。奏法論そのものが珍しかった当時、この記事を掲載した編集者(目黒三策)の先見の明も讃えたい。
「サクソフォーンの再認識」というタイトルから、1930年代のアメリカではすでに、再認識を叫ばなければならないほど(少なくともティールの目から見て)、サクソフォーンの奏法が混乱していたとの推測もできる。

2. 現在の指導
●吹奏楽雑誌の誌上レッスン
私は少年時代から、手当たり次第に書物を乱読してきた。吹奏楽雑誌もその中に含まれる。特に誌上レッスンのたぐいは、中学校時代から貪るように読んだ記憶がある。私の演奏法のどこにどのようにと言うことはできないが、また善し悪しも別として、それらの記事が深く影響を与えていることは確かである。現在もしばしば、誌上レッスンや演奏家のインタビュー記事などのページをめくる。他の奏者がどのような考えのもとに演奏しているかを知ることは興味深い。
ここでは、音楽之友社発行「バンドジャーナル」誌の「演奏に役立つ実践ワンポイントレッスン」のページに焦点を当てて、呼吸法についてどのような記述がなされているかを調査した。それぞれの筆者が工夫を凝らした文章で、自らの奏法を分かりやすく表現しようとしている様は、管楽器演奏法の現在を記録する生々しい貴重な資料として私に映った。対象は、1985年以降発刊のものに限った。ごく大ざっぱな傾向として、金管楽器では呼吸法に関する記述が年間を通じて多く見られ、木管楽器ではやや少なかった。
1985年のある号では、サクソフォーン奏者の大山真美が以下のように記している。まことに妥当な意見だと思われる。
よく「息をおなかに入れるように!」とか、「もっと腹で吸え!」などと言われることがあると思いますが、これについて私が多少気になるのは、息を吸うときの注意がおなかをふくらますことばかりに集中しすぎて、実際にはたいした量の息が吸えていない人がけっこう多いということです。
呼吸というのはどんな場合でも肺でするものですから、まずは自分の肺にめいっぱい空気を取り込むことに集中してみて下さい。 ─引用おわり─
1998年のある号では、トランペット奏者の高橋敦(現・東京都交響楽団首席奏者)が以下のように記している。この文章には、必要なことが的確に表現されている。(下線は高橋)
(前略)リラックスできたらゆっくり(ときと場合によっては速くとらなくてはいけないが)、そしてたっぷり息を吸います。このとき気をつけなければならないポイントとは、おなかに力を入れてはいけないということです。常に、体はリラックスしていなければいけません。吸い方のコツとして、胸の中に大きな風船があり、息を吸ってその風船を胸いっぱいに膨らませるというイメージを持って下さい。簡単にいうと、呼吸を促しているのは肺であり腸ではないのです。膨らませるのはおなかではなく胸だということです。(中略)
すると肺が大きく膨らみ肋骨を押し上げることによって胸が前に大きく膨らむのが確認されると思います(確認できない人は吸い方が足りないと思われます。息を吸う前に体中にある息をすべて吐ききってから、、胸骨、背骨がピキピキと音が出るほどたくさんの息を吸って下さい)。このように胸が押し上がることをチェスト・アップといいます。
それでは、吐いてみましょう。まずチェスト・アップして息を吸い込みます。次に、その吸うという行為をやめます(とめるのではなくやめるのです)。すると自然に息が口の中から出てきます。大まかにいうとこれが吐き方です。(中略)ただ、勘違いされると困るのは、ふぁぁ〜としたチョロチョロの息という意味ではありません。当然、出だしからスピードのある安定した息を、しかもまっすぐださなくてはいけません(このときもおなかに力を入れてはいけない)。(中略)
腹筋に力を入れると他の部分にも力が入るはずです。それで演奏するには、大変な妨害になります。具体的には、ハイトーンが出せないとか、音が汚いとか、指が速く動かせないとか、それよりも何よりも、まず息を出すことがとても苦しいのです。吸うときも、力が入っていると体が堅くなり,たくさん吸っているつもりになってしまいます。(後略) ─引用おわり─
彼は翌月号でも、ほぼ同じことを繰り返し述べている。そして「2ヶ月に渡って呼吸法について書きましたが、これができなければ次に進めません。本当は8ヶ月ほど続けたいのですが、そんなにやるとそれだけで終わってしまうので、来月から違うことを書きます」と記しているが、これは冗談でなく本音であろう。私も同感である。
しかしながら同月の別のページでは、別の奏者による「息を口から深くたくさん吸います。このとき肩を上げずにおなかをふくらましましょう」との記述も見られる。呼吸法に関しての見解の混乱という点では、戦前と大差ないのではなかろうか。
●教則本
この領域について論評することは、いささかためらわれる。それぞれの筆者がそれぞれの方法で、演奏家として一家を成しているわけなのであって、個々の内容を云々するつもりは全くないことを、あらかじめ申し上げておきたい。ただ、名手であっても、自身の奏法を正確に言葉に置き換え得ているかどうかについては、疑問無しとしない。師の言葉、思いこみ、勘違い、誇張、かくあるべしという願望等が、ノイズとなって紛れ込んでいる可能性は否定できない。これは私自身への戒めでもある。
調査したのは5社から刊行された計36冊で、そのうち、約1割がはっきりと「息を吸うときは腹をふくらませる」という記述をしている。加えて「胸を動かさない」としているものもあった。逆に、吸気主動の考えに近いと思われるものは約2割であった。「息を吸うときは腹をふくらませる」ことを明確に否定していたものは、約1割であった。
全体的な傾向は、次のようなものである。若い世代の著者では、呼吸法の解説に熱心で表現に工夫を凝らすグループと、単純に「吸うときは腹をふくらませる」で済ませるグループの2つに分化しているようだった。他に、呼吸法には全く触れていないか、漠然とした表現のものもあった。木管よりも金管楽器奏者の方が、呼吸法に対しての重要性を認識していることは歴然としていた。ベテラン奏者たちが著したものは、理屈っぽくもなく強制的でもない、含蓄に富んだ文章が多いことが印象的だった。進歩的とさえ感じられた。
同一出版社から出ているシリーズ物の教則本であっても、各巻で呼吸法に関する考え方の方向性は、まちまちであった。同一楽器であっても、出版社によって考え方が異なっている場合もあった。念のため、尺八、篠笛の入門書も計4冊見たが、腹をふくらませよとの記述は見あたらなかった。
呼吸法に関して丁寧に解説してある文章の中には、「横隔膜」という語が頻繁に現れるが、体内深くにあり見ることも触れることもできないものを意識するのは難しいのではないかというのが、私の印象である。横隔膜をどうこうせよと言われても、いかんせん隔靴掻痒の感を免れない。解剖された死体の横隔膜を見た人は「なあんだ!と思ったぐらい、ただの薄っぺらい膜だった」と述べているが、われわれ演奏家の横隔膜は、一般人より鍛えられて分厚くなっているのだろうか。それすら分からない。
参考のため、発声の本を手当たり次第見たが、腹をふくらませよとの記述は見あたらないどころか、遙かに高度な次元で議論が展開されていることを痛感させられた。ソプラノとバスでは、ピッコロ・トランペットとテューバほどの違いがあるだろうと思われるのだが、基本的なことは同じであるようだった。
愛好家は楽器の演奏を楽しめばいいのであって、私が些末なことに目くじらを立てることもないように思われる。しかし私自身が過去には単なる愛好家であった時期があり、そのころ読んだ出版物から、良くも悪くも長期間多大な影響を受け続けていたことを考えると、等閑視することはできない。


第4章 補遺

1. 日本の伝統音楽の発声
●米山文明の指摘
よくあるような、日本の伝統音楽の発声に、日本の洋楽における誤った呼吸法の原因を帰すような考え方は誤りであるようだ。医学博士で日本声楽発声学会副会長の米山文明は、その著書「声と日本人」で、次のように述べている。 

邦楽発声と洋楽発声は違うのだろうか。同じところもあれば違うところもあると私は考えている。発声の原点すなわち音源を作るところまでは同一で、そこから『日本語』という部分が導入される時点からそれにかなった変化が加わってくるはずだと思う。つまり呼吸機能の一環として排出される呼気流を音源としての声(喉頭原音)に変えるところまでのハードの部分までは和・洋とも同一であるべきだと思う。
その音源を言語差も含めた使用目的の変化に応じてどのように変化させ(高低、強弱、持続、音質の諸因子を)、さらに鼻道、声道の共鳴器官、構音器官を目的にかなうように脚色し、表現するためのソフト部分が多様に変わるのである。 ─引用おわり─

私はこの指摘が、管楽器にも当てはまるのではないかとの感を抱く。各管楽器間における息遣いの感覚の差異を、彼の言う民族間におけるソフト部分の多様性になぞらえて説明することも可能であろうかと考える。そのことについては、期を改めて考察してみたい。
●「梁塵秘抄」から
時代は飛ぶ。12世紀後半に後白河法皇は、「今様」に対する異様なまでの情熱を込めて「梁塵秘抄」を編んだ。一般には「遊びをせんとや生まれけむ」で名高い世俗歌謡集として知られているが、後半の口伝集には、歌唱法、ソルフェージュに関する法皇の見解が数多く含まれている。
この書名は、梁の上に積もった塵が名人の声の響きによって舞い上がり、三日も降りてこなかったという故事から名付けられた。つまり、素晴らしい声によって梁が強い共振を起こしたというわけである。このことからも、そのようなダイナミックな響きに対する憧憬が感じられる。つまり「梁塵秘抄」とは、「ベルカントの秘法」というような意味になる。そこには、次のような興味深い記述がある。

・甲のところ(高音部)など、形なぞやかに、首いがまず、こころよき顔にて、声に一段余慶 あると人に聞かせ謡う者、稽古の積みたる人と知るべし。
・切々(大切に)息を残して声を皆々出すべからず。引く息を腰のもとまで通ひ、腰は岩の如 くに、腰より上はただ青柳の如く、面は常よりも柔和に。

 「息を残して声を皆々出すべからず」とは吸気主動のことだと言ったら、いささか牽強付会に過ぎるだろうか。また、笛の名手でもあった法皇は、次のようにも述べている。耳が痛い。

・名管にても稽古なき人あとをる時は、石瓦に同じ。管に不足出きて、いろいろ我が至らぬ事 をさし置いて、古管に難を付くるぞ。名器はその人の稽古ほどほどになるものぞかし。ゆめ ゆめ忘るべからず。

2. ウサギ跳びと腹式呼吸
誤った腹式呼吸というのは、運動部におけるウサギ跳び(両膝を折り腰を落として、両脚同時に跳びながら前進すること。関節などに有害な運動とされる。『大辞林』による)のようなものだ。
インスタントにそれらしい音を出したい、コンクール等で早く結果を出さなくてはいけないなどといった必要に迫られて、安直な方法に飛びつく心理は理解できる。そのような場に「息を吸うときは腹をふくらませよ」という号令が下される。「根性」とか「先輩は絶対」といった心象風景にまことによく似合うではないか。
スポーツ界では、つとに科学的トレーニングが取り入れられ、ウサギ跳びは影を潜めた。日本のピアノ界では過去の一時期、いわゆる「ハイフィンガー」が必要以上に奨励されていたと聞く。だが現在では、より柔軟で合理的な奏法が受け入れられている。カザルス以前のチェリストは、両肘を両脇にぴったりくっつけて弾いていたというが、今では信じられないほどだ。
管楽器の世界にも、新しい風は吹き込んでいる。ワイズバーグ著「管楽器演奏の技法」は、偏りのない思想と明確な表現において抜きん出ている。「トレバー・ワイ フルート奏法の基礎」は、現実的で有益なアドバイスに満ちている。ヴェクレ著「ホルンがもっとうまくなる」の思慮深さとユーモアには、心救われる思いだ。ゴードン著「金管演奏の原理」の内容とその姿勢には、心底敬服させられる。小論を執筆することを通じて、これらの著作に出会えたことは幸せだった。様々な考え方が消長を繰り返す今日、真に価値あるものが定着して行くことを望みたい。
通常、音楽大学ではそれぞれの教師が各レッスン室でどのような指導を行っているかは、分かりにくくなっている。管楽器の世界では、専門の違う教師が互いの教授法について意見を交わすことは少ない。特にサクソフォーンは、オーケストラの常連楽器のあいだにある暗黙の了解、無言の常識(良否は措く)のようなものからも隔たっている。自戒も含めて思うのだが、今日のサクソフォーンの、良く言えば独自の驚異的な発達、悪く言えば悪達者な芸風の跋扈はこのような土壌の元に培われたと言っては言い過ぎであろうか。


おわりに

どこの世界にもある「非力な者は力んで事を行い、力のある者は力まかせに事を行う」といったことが、管楽器の世界にもあるのは仕方がない。修行の渦中にある者が、熱心さのあまり却って大切なことを見失いやすいということもあるだろう。しかし、芸事の道に入った者たちは、そこを何とかしていかねばならないのだ。冒頭に掲げた後白河法皇の言葉にあるように、「声技」のたぐいは形として残しにくい性格のものであろうと思う。我々は、それを「レッスン」という「口伝」によって、正しく伝えていくよう努力すべきである。
ここまで専ら自分以外の事象をあげつらってきた感があるが、もちろん私にも反省すべき点はありすぎるほどある。その最たるものは、自分の生徒の迅速な成長を願うあまり、演奏の「コツ」や「ツボ」のようなものばかりを伝授しようとしてきたことであろうか。それが生徒の実技試験の演奏にまざまざと反映されていて、身が縮む思いをしたことは一度や二度ではない。生徒の演奏の中に、自分の矮小な価値観を見る思いである。これからは、自分のそうした刹那的傾向に別れを告げて、真に価値あるものの存在を生徒とともに追求していかなくてはならないと感じている。
今から四半世紀前、私たち国立音楽大学の新入生が、当時の有馬大五郎学長から「演奏家は音が命やで」との言葉を贈られたとき、19歳の私にはその言葉が当たり前すぎてピンとこなかった。受験勉強で染みついた近視眼的な価値観からすると、あまりにも悠長な言に感じられたのだ。だから、現在の音楽学生が、かつての私がそうだったように「音」に対して今ひとつ関心が薄いことも理解できる。しかし、年とともに有馬学長の言葉は、深く私の胸に迫ってくるようになった。
吸気主動のブレスを生徒に指導していると、時が熟しその感触をつかんだ生徒が、必ずこういう声を上げる。「こんなにたくさんの筋肉を、こんなに大きく使うんですね」と。そうなのだ。その言葉を聞くと私は、「君は分かったんだね、おめでとう」という気持ちになる。同時に、「これからが演奏の醍醐味を味わうときだ。この感触を忘れずにいてほしい。そして君自身の音楽を作り上げて行くんだよ」と願わずにはいられない。(文中敬称略)

       大方の誤りたるは斯くのごと教へけらしと恥ぢておもほゆ
                                植松 寿樹

「枯山水」(昭和14年)所収。作者は銀行や商社を経て東京の芝中学の国語教師となり、大正12年以後昭和39年に没するまで、40年余りそこに勤めた。これは試験の答案を見ながらの感想。大勢の生徒が同一問題で誤った答えを書いていたのだが、これは自分がそのような教え方をしたのだろうと、「恥ぢて」思っているのである。こういう教師に教わった生徒らは、言うまでもなく幸せだった。
            大岡 信著「新 折々のうた1」より

参考文献および引用文献
管楽器関連の文献
「信号ラッパ奏法」 山口常光著 シンフォニー楽譜出版社 1935、p.7
「ブラスバンド教本」 山口常光著 管学研究会  1938、p.21
「吹奏楽教本」 山口常光著 音楽之友社  1955、p.19
「管楽器演奏の技法」 アーサー・ワイズバーグ著 田中雅仁訳 音楽之友社 1988
「トレバー・ワイ フルート奏法の基礎」 トレバー・ワイ著 井上昭史訳 音楽之友社 1990
「ブラスバンド喇叭鼓隊ニュース」 管楽研究会 1940年2月号、p.1
   「バンドジャーナル」 音楽之友社 1985年5月号、p.115、1998年6月号、p.143
  「パイパーズ」 パイパーズ 1986年6、8、12月号、1987年1月号

  声楽関連の文献
「声楽ライブラリー 3 呼吸と発声」 音楽之友社 1983、p.9〜11
「新・発声入門」 森 明彦 芸術現代社 1990
「声と日本人」 米山文明著 平凡社 1998、p160〜161

その他の文献
「新訂 梁塵秘抄」 佐々木信綱校訂 岩波書店 1933、p.122、127、183
「梁塵秘抄」 秦 恒平著 日本放送出版協会 1978
「新 折々のうた1」 大岡 信著 岩波書店 1994、p.141

 


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