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同質の楽器なのに、あたかもオルガンのストップのように、さまざまな音がひびきます。日本語で音色というより、英語で「トーン・カラー」、音質が色を持っているといったニュアンスのほうがぴったりくるでしょう。フルートのように高音がすっと伸び、オーボエのようにちょっと鼻にかかる。ときには電子音を重ねているのかと耳をそばだてたり。とてもとても微弱なところから、割れる直前の大きさまで、ダイナミック・レンジの広さも格別です。ごくふつうに使われる、アンサンブルが美しい、破綻がない、音色が同質でそろっているといったこういった褒め言葉は、実際の音を前にしては空疎になってしまう。雲井雅人サックス四重奏団の演奏を聴きながら、思っていました。 このコンサートにつけられるタイトルは〈メメント・モリ〉。ヨーロッパ美術のなかには、ときどき、静物画や田園風景のなか、何気なく髑髏がおかれていることがあります。華やかさや楽しさがあってもそれは死を前にしてはあくまで仮のもの、一時のものにすぎない。「メメント・モリ」とは「死をおもえ」の意であり、こんな寓意を示しています。生をおくる日々を、ゆえに、いたずらにやりすごしてはいけない。 死が先にある、ゆえに、いまを充実しよう。「メメント・モリ」――死をおもったとき、生への姿勢をどうとるかは変わってきます。 ルネッサンス舞曲をもとにしたところからバッハ、そしてナイマンによる友の死を悼む曲が前半、後半はアメリカの作曲家マズランカの《マウンテン・ロード》へとつながってゆきますが、ここには一種の死生観、死を意識することで生をよりよくする境地にむかう。そんなおもいが、雲井雅人のカルテットにより、音楽作品をとおして提示されているように思えます。 前世紀の終わり、1980年代から90年代だったらば、もっと享楽的な「現在」を楽しむことが前面にでてきたかもしれません。しかし、2003年においては、状況が異なってきています。世界の、地球の状況を踏まえたうえで、あらためて「メメント・モリ」を考えること。それも、音楽という、演奏している「現在」にしかありえず、演奏をとおして「現在」を感得する媒体をとおして提示されること。プログラム案を聞いたとき、こうしたつながりがぱっとあたまのなかに広がりました。過去に作られた作品を演奏家が単に演奏するだけではなく、そこで何を語るか。雲井さんはそうした自覚がはっきりとあるひとです。そして、それをアンサンブルとして実現できる音楽と思考の力のあるひとなのです。 小沼純一(こぬま・じゅんいち)
東京生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。現在、早稲田大学文学部助教授。第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。著書に『ピアソラ』(河出書房新書)、『ミニマル・ミュージック』(青土社)、『武満徹 音・言葉・イメージ』(青土社)、『パリのプーランク』(春秋社)、『アライヴ・イン・ジャパン』(青土社)、『サウンド・エシックス』(平凡社新書)、ほか。翻訳に,デュラス『廊下で座っている男』(書肆山田)、シオン『映画の音楽』(監訳・みすず書房)、『バカラック・ルグラン・ジョビン』(平凡社)ほか。 |