もう50年も前になる。私がウィスコンシン州ミルウォーキーで高校生活を送っていたときに、サクソフォーンの先生であるエディー・シュミットが、マルセル・ミュールの吹くイベールのコンチェルティーノ・ダ・カメラのレコードを聴かせてくれた。
彼の音は、私が今までに知るどのサクソフォーン奏者からも聴いたことのないものだった。コントロールとテクニックは非の打ち所がなかったし、その繊細さはありきたりのサクソフォーン演奏とは明らかに異なっていた。
マルセル・ミュールのレコードのジャケットには、彼がパリ音楽院で教えていることが書かれてあった。それで、たいして深く考えもせず私は彼に手紙を出してしまった。ところが驚いたことに、彼から返事が来たのだ。そこには、とても暖かく丁寧な調子で、私がパリの彼の元で学べる可能性があることが記されていた。
いまだかつて私の家族の誰一人として、ウィスコンシンの州境から遠く離れたことさえなかったというのに!
パリに行きたい、音楽院でミュールに学びたい。私の夢は膨らんだ。そして1955年の秋、私はパリに旅立った。大学3年生の時だった。
私がミュールに会ったとき、彼はパリ国立音楽院に勤務して13年目を迎えるところだった。私は住む所もろくに決めぬままパリにたどり着いたのだが、そんな私にミュールは当面の住処を見つけてくれ、私の演奏を聴いてくれ、そして私を彼の12人の生徒のうちに加えてくれたのだった。
その人は、私を人間としても音楽家としても変えてくれた。マルセルは思いやりに満ちた人物だった。心が広く献身的で、教えることを愛し、音楽から大きな喜びを得た人だった。
ある時期、私が不安にかられ自信を失い孤独におちいっていたとき、ミュール夫妻は私を家族のように、あたかも二番目の息子であるかのように扱ってくれた。
物静かな夫妻の、お互いに対する強烈な誠実さ、音楽と生徒への愛を保ちつつ共に歩むさまには、畏敬の念を起こさせられた。私たちは生徒として、いつも彼を尊敬する師と仰いできたが、それは彼の人柄および音楽の両面からの尊敬であったのだ。
ミュールは引退したあと、その隠居所である南フランスのサナリーの家に、私と私の家族をしばしば招いてくれた。そのころから私は、彼のことを「パパウー」、夫人を「ペペ」という愛称で呼ぶ間柄となった。
彼ら二人と共にした数多くのランチやディナーを、私は楽しく思い起こす。音楽院でのこと、現代音楽のあり方、そして人生の様々なことについて、私たちは語り合ったものだ。
ミュールは引退したとき、サクソフォーンをクローゼットにしまい込み、その後二度と取り出すことはなかった。
「時が来たのだ」とミュールは言った。若い奏者や教師たちがチャンスを得るべき時が来たのだと。そして彼とペペにとっても時は来たのだった。地中海からの暖かいそよ風の中でくつろぎ、人生をひたすら楽しむ時が。
功成り名を遂げた繊細かつ健やかなこの芸術家は、多くの偉大な演奏家や教師は採らないかもしれない結論、しかし賢明な結論に達したのだ。
1979年、ノースウエスタン大学において第6回世界サクソフォーン・コングレスが開催され、マルセル・ミュールは名誉ゲストとして招かれた。
滞在期間中、ミュール夫妻は私の家に起居した。そのとき私は、彼の音楽とサクソフォーン、そして人生そのものに対する愛と情熱に裏打ちされた、純粋で謙虚な人柄や気取らない態度に触れることができた。それは、大げさな振る舞いやもったいぶった言動とはほど遠いものだった。
マルセル・ミュールは子供のときに、クラリネットとサクソフォーンを父から教わった。そして22歳の若者は、フランスでもっとも優れた木管・金管・打楽器のアンサンブルである「ギャルド(パリ憲兵隊)」のバンドに入隊した。彼はアンサンブルの一員として、13年間をここで過ごした。名だたる「パリ・サクソフォーン四重奏団」を結成し、独奏者および室内楽奏者としての名声を彼が築き上げたのは、この場所だったのだ。
彼に招かれて、ミュール・サクソフォーン四重奏団のリハーサルを見学し、コンサートを聴いたときのことを、私は今も鮮やかに思い起こすことができる。
その晩、彼の四重奏団は作曲家臨席のもと、フローラン・シュミットの四重奏曲を演奏した。コンサートのあと、ミュールは私をシュミットに紹介してくれた。私たちは彼の書いた音楽のことや、マルセル・ミュールおよびサクソフォーンという楽器の素晴らしさについて共に語り合った。1956年のことだった。そのときシュミットはすでに晩年を迎えており、その2年後にはこの世を去ったのだ。あの時のことは、生涯忘れられない思い出となっている。
ミュールは1901年6月24日に生まれた。ベートーヴェンがこの世を去ってまだ74年、サクソフォーンの誕生から64年、そして、アドルフ・サックスおよび彼の楽器の最初の重要な支持者であるエクトール・ベルリオーズの没後32年という年であった。
サクソフォーンの発明者であるアドルフ・サックスは、その新しい楽器のパリ音楽院における初代教授を務めた。1870年、財政の逼迫により他のいくつかの楽器と共にサクソフォーン科は廃止された。クラスの再開は、1942年のクロード・デルヴァンクール院長のときまで待たねばならなかった。そして、当時すでにサクソフォニストとしても教師としても名声の高かったマルセル・ミュールが、アドルフ・サックスの跡を継ぐことになったのだった。
サクソフォーンを手にするすべての奏者にとって、マルセル・ミュールの録音の数々はスタンダードであり続ける。たとえミュールのヴィブラートの用法が、旧いフランスの管楽器のスタイルを反映しているとしても、彼の音楽的なフレーズの解釈、熟達した旋律の歌わせ方、響きの非常な美しさが、きびしい耳の持ち主をも満足させるものであることは誰も否定できないであろう。
いまや数多くの言語に翻訳されているミュールの教授法、著作物、編曲作品等は、数世代にわたる教師や演奏家にとって、教育の基本的な枠組みとなって生きている。彼の与えたインパクトは、世界中の数え切れないほど多くのサクソフォニストやその他の音楽家たちの音楽的生命に影響を与え続けている。
サクソフォーンの巨匠は、人生を楽しみ音楽を奏でた100の素晴らしき歳を重ねたのち、我々の元から去って行った。私たちはマルセル・ミュールとの別れを嘆くより、彼の人生を誉め称え味わうべきである。素晴らしい音楽を奏でることに捧げた人生を、この楽器のために打ち込んだ人生を、そして家庭や友人・生徒との親密なつながりをその中心に据えた人生を。
先生と知り合い、その教えを受ける栄誉と特権を得ることができた者たちは、あの人が温かく親身でいつも思いやりに満ちていたのを忘れることはできない。マルセル・ミュールが教育の場や人々とのやりとりの中で表した善意や共感のほんの一部でも良い、それを個人個人が日々実践することができたなら、誰もが教師として人間として高潔になれるに違いない。
私は、自分がマルセル・ミュールの生徒であることを、ひとりの人間として心から誇りに思っている。それは、私を触発してくれたフレンチ・スクールのサクソフォーン演奏法および教授法(それは私たち全員に彼が残してくれた遺産である)のせいばかりでなく、度量が広く懐の深い彼の人間的魅力のせいでもあるのだ。
マルセル・ミュールという人物は、企むことも驕ることもなく、音楽を奏でるためにたまたまサクソフォーンを手に取り、感動と正確さと学識をもって演奏・教育の両方を行うことができた最上の音楽家だった。私たちは共に喜び合い、誉め称えようではないか。彼がそれを何とも見事にやってのけたことの幸運を、そして彼がその美徳と才能と教授法を世界中の多くの有望な音楽家たちに手渡すことができたことの幸運を。
マルセル・ミュールの名声と功績は、現在私たちのいるインティメイトなサクソフォーン界だけでなく、将来の日々においても、より大きな音楽の歴史の上においても永く残るであろう。私たちの眼前から彼はすでに去り、まみえることはもう叶わぬが、彼がサクソフォーンの偉大な師匠であり続けることに変わりはない。
Vive Le Maitre! Vive Marcel Mule!
(ヘムケ博士の許しを得て雲井が翻訳した)
Dr. Hemke is the senior associate dean for academic affairs at the School of Music, Northwestern University, Evanston, Illinois.