トップページ >連載コーナー  >覚書2003.12.21更新



以下の文章は、10年ほど前だったかな、マッキントッシュのコンピュータを買っ たばかりで、ワープロというものを覚えたてのころ書いたものです。プリントアウト して自分の弟子たちに喜び勇んで配っていました。自分の書いたものが活字になって 人に読んでもらえるということが、とても嬉しかった記憶があります。
ここ数年は、ちょっと思うところもあり配布をやめていましたが、もう一度見直してみようと考えるようになりました。
直接の弟子たちを対象とした文章であり、斟酌なしに書いている部分が多いので、 多少エラそうな物言いなのはどうかお許し下さい。
たまたまこれをお読みになった方は、できればこれをただの読み物として読んでい ただければ幸いです。なお、内容は随時更新していくつもりです。




「覚書」ver5.0

目次

第1部  演奏のテクニカルな側面から 〜 中庸な音を得るには

 1   マウスピースとネックで
 2   アンブシュアについて
 3   喉と舌について
 4   ブレスについて
 5   タンギングについて
 6   ヴィブラートについて
 7   指について
 8   音色の変化について
 9   音程について
10   ソルフェージュについて
11   ジャズ的奏法、現代的奏法について
12   楽器・マウスピース・リガチャー・リードについて
13   「アウフヘーベン」ということ
14   メソード、エチュード、CD

第2部   小言めいた話

 1   クラシック・サクソフォーンのおかれている立場
 2   学生及びプロの現状
 3   他の楽器に学ぶ
 4   これから
 5   稽古の掟



「覚書」

第1部   演奏のテクニカルな側面から 〜 中庸な音を得るには

********************************
*         「中庸な音」とは何ぞや。         *
*ありふれたメロディーを、無理なく美しく吹ける音のことである。*
********************************
1   マウスピースとネックで

以下、主にアルト・サクソフォーンの場合の説明をする。適当なアンブシュア(後述)のもと、リードとマウスピースのみで音を鳴らすと、だいたい実音(ドイツ音名で)B''またはH''の音が出る。これはかなりやかましい音で、警笛のように鳴り響きく。とてもうるさいので、あまり人前では吹いてほしくない(そういえば、かれこれ30年近く前、国立音大の受験講習会に行ったとき、石渡先生に「マウスピースだけで1オクターブの音域を作ってみろ」と言われて、初めはなかなか出来なかったが、徐々に下が出るようになった。これは、かなりの器用さを要すると思う)。

ネックにつないで吹くと、やや音楽的な音になる。だいたい実音As'の音が出る(テノールの場合はだいたいE'、バリトンもだいたいE')。少し高めでもよいが、けっしてA'にはならない。もちろん、太く真っ直ぐなよく響く音で効率よく鳴らすこと。これだけのことにだって、趣味の良し悪しは出るものだ(もし「雲井門下」というようなものが存在するとしたら、このネックでの鳴らし方こそが、その特色なのかもしれない)。
この音を力強くかつ美しく鳴らすことができれば、この楽器の響きの弱点である、管長が短い開放の記譜まん中ド♯や、サイドキーでとる中音域レ・レ♯、ミなどが充実した響きとなる。ダニエル・デファイエの中音サイドキーの音は絶品だが、あのイメージだ。管長の短い開放の音が充実すれば、それにつれて管長の長い音も響きがよくなる。また、この楽器の音程上の弱点(ぶら下がりやすい中音域シ♭・シ・ド・ド♯、上ずりやすい五線譜の第4線から上のレ・レ♯・ミ・ソ♯・シ・ド♯)が現れにくくなる。
また、オーヴァーブローした状態(つまり音が上にひっくり返った状態)では、だいたい実音のB''が出る(アルトの場合)。これを手がかりに、最高音域の記譜ファ♯やファが容易に発音できるようになる。
上で述べたピッチは、(もっぱら下の方向に)柔軟に動かすこともできる。実際の演奏では、ピッチの変更は頻繁に行なわれるわけだから。

2   アンブシュアについて

あるマスタークラスで、デファイエはこう言った。「ちょうどいい深さでくわえなさい」。当たり前に思われるが、これがとても大切だ。くわえ方が深すぎれば、開き過ぎたうるさい制御不能の音が出る。浅すぎれば、つまったようなはっきりしない消極的な音が出る。

下の前歯にかぶせている下唇の内側の部分は、リードと共に(金管楽器奏者の唇と同様に)高速で振動しているのであって、リードが野放図に裸で振動しているのではない。したがって、下唇をたくさんかぶせ過ぎると、柔らかいが締まりのない音で、高音が出にくい、下唇をあまりに少なくしかかぶせないと、金属的な音で、低音が出にくく、ひっくり返りやすい傾向が現れる。どのような下唇の状態が良いかは、まさに百人百様で、試行錯誤しながら見つけるよりほかない。

リードが振動するためには、リードとマウスピースの間に適当な隙間(余地)が必要だ。アンブシュアの力が強すぎると、隙間は潰れてしまいむりやり息を通すことになり、音はつまり、音程の調節もできない。アンブシュアの力がゆるすぎると、隙間は広すぎて息は無駄になり、音はかすれ、ぶら下がる。絶えずもっとも効率よい隙間を保つようにする。その隙間は、音量、音色、音域等によって変化する。

顎が本気で噛めば、マウスピースとリードの間の隙間など、あっと言う間につぶれてしまうだろう。強く噛んで、そこに強い息を通そうとしている人も多く見受けられる。実はそれが悪循環の始まりであると言っても良い。顎の状態は「臨機応変」を旨とすべし。リードを絞め殺すことなかれ。そこにこそ演奏家たるべく職業的訓練を要す。

深いか浅いか、厚いか薄いか、強いかゆるいか。これらの要素を、頬の筋肉、顎の筋肉、唇の周りの筋肉等で調節する。頬から顎にかけてたくさんの筋肉があるが、これらが少しずつ力を出し合う。言い換えると、マウスピースとリードの間に適切な隙間を保持するためにアンブシュアを支える、と言った方が正確かもしれない。このとき、頬、上唇および口角部(口のはじの部分)の筋肉の果たす役割は軽視できない。

よく見かける貧しいアンブシュアに、こういうものがある。上唇は単なる息漏れを防ぐためのふた、下唇は歯とリードのあいだに挟まれてただ薄べったくつぶれているというもの。金管楽器奏者やダブルリード楽器奏者の上唇の使い方が重要であるように、シングルリード楽器奏者にとっても留意すべき点である。

また「下唇はリードが振動するためのクッションであるから厚い方が良い」、と思い込み、唇が盛り上がりすぎている人も見かける。そしてまた、口輪筋(唇の周りの筋肉)のみを緊張させていればしっかりしたアンブシュアになる、と誤って考えている人もしばしば見かける。

リードという振動体に直接触れている唇の部分は適度に柔らかいままに保つべきだ、と私は考える。アンブシュアを支える外側のフレームともいうべき頬の筋肉(大頬骨筋等)は、適度な緊張を保つようにし、頬を膨らませたりしない。頬の内側は奥歯に密着するようにする。多彩な音色を作りだすためには、全体を柔軟な変化に対応できる状態にしておくべきであることは言うまでもない。

このことを説明するとき私が用いるたとえ話は次のようなものだ。「国宝級の陶器を京都から東京に運搬するとする。そのときどのように梱包するか。本体を直接覆うものは繊細な柔らかい素材であろう。そして衝撃に耐えうる強靱な箱に収めるであろう。箱と本体の間隙は適度な弾力性を持った物体で充填されるであろう。」
余談だが、私が軽いスランプに陥ったときなどは、しばらくダブル・リップ(上唇も歯にかぶせて吹く、オーボエ、ファゴットのようなアンブシュア)で楽器を吹いていると、もとのアンブシュアを思い出して不調から脱出できることがある。この吹き方では、上唇や頬の筋肉も大げさなほど総動員しなければならない。よって、いくつかの筋肉がさぼっていて、特定の場所に負担をかけているようなアンブシュアから回復できるのだ。曲をさらうときも、ルーズなアンブシュアで吹く軽いノリの曲から始めたりすると、その後が楽だ。


3 喉と舌について

我が師フレデリック・ヘムケは言った「タング・ダウン!」。舌の位置は重要だ。この場合、舌の位置は、喉の構えとも関連する。舌が、なるべく息の流れを妨げないようにする。

音は汚いけどタンギングはきれいと言うことはありえない。発音はなってないけどヴィブラートはきれいと言うこともありえない。ソノリテができていないのに、きれいなハーモニーが作れるはずもない。つまった音のレガートなどというものには、何の価値もない。舌の位置は、それらを左右する。

ごく端的に言って、舌が下がって息の通り道が広いときはドルチェで幅広い音、舌が上がって通り道が狭いときはテンションの高い訴求力の強い音になる。

「バラのかおりを嗅ぐように」、これは発声の秘訣について古来から述べられている言葉だが、管楽器の発音にもあてはまる。ためしに鼻からゆっくりと息を吸い込むと、鼻の奥というか口の奥というか、喉の上部というか、そのあたり一帯がリラックスして軽く拡がった状態になる。その喉の状態のまま音が出せれば理想的だが、これには訓練を要す。

私の場合、外から見ると、演奏中は息の圧力によって喉が単純にふくらむ。しかし、顎の下や喉の筋肉が堅過ぎて、吹いたときにその一帯がほとんど膨らまない人がしばしばいる。アンブシュアを形づくるために、顎の下の部分まで不必要な力が入ってしまっているか、あるいは、口の中を広げようとしすぎて、誤って舌の付け根に力が入ってしまっているのだ。

また、こんな人もいる。息がいっぺんに出て、乱暴な音になるのを恐れるあまり、声帯を過度に狭めて息を減速している。声帯で一度通り道をじゃまされた息は、(スプレーのような)まばらな粒子となり、滑らかさを失い、精気のない音を生み出す。レガートやスタッカートなどの楽器の反応も鈍い。声帯で息のスピードをコントロールしようとするのは、もっとも安直で怠惰なやり方だと思う。

適度にリラックスしていれば、内側から空気の圧力がかかったときには、喉は押されてふくらむのが自然な現象だ。ただし、ここが大切なところだが、喉は広げれば広げるほどよいというわけではない。故意に広げ過ぎると、うつろな締まりのない音しか出なくなる。わざと、むりやり膨らますのではないことが重要だ。

マウス・ツー・マウスの人工呼吸法を行なうとき、「気道の確保」という動作がある。被実施者の首をガクッと後ろに倒すように伸ばして、気管をもっとも空気の通りやすい状態にして行なうと教わっている。どうしても喉のリラックスした状態がつかめないとき、鼻からゆっくり息を吸いながら首を後ろに倒してみる方法は、ひとつの「ヒント」にはなるはずだ。喉の構えは、次に述べる「ブレスについて」とも密接に関連している。


4 ブレスについて

「息の支え・空気の柱」の重要性は、いくら強調してもし足りない。強弱や音色の変化、アクセントの表情などは、主にブレスのコントロールからもたらされるのだ。これがマスターできれば、90パーセント(?)はサクソフォーンの奏法を究めたことになると言ってもよい。逆にマスターできなければ、いくら指のメカニックや作品のアナリーゼができていても意味がない。

意外に思われるかも知れないが、楽器を吹くためだけの特殊な筋肉の使い方というのは、あまり無いと言ってよいと思う。生まれたときから体に備わっている力を、うまく楽器に応用することができればよいのだ。すなわち、「泣き叫ぶ」「咳をする」「くしゃみをする」「笑う」など。

このとき筋肉がどのように働いているか、自分の体を観察してみて欲しい。無意識のうちに、びっくりするほど筋肉を躍動させていることに気づくと思う。赤んぼうのときから無数に繰り返してきた、生きるために必要なこれらの行為に使われる筋肉は、歌を歌ったり、舞台でセリフを言ったり、管楽器を演奏したりするときに活躍する筋肉と同じなのだ。言い換えれば、呼吸に関して体がとっくに知っていた、楽に大きな力を出せるやり方を、楽器を吹くときにも行なえばよいのだ。

とは言いながらも、相応の訓練が必要とは思われる。なぜなら、これらの動きというのは、やや爆発的で不随意であるから。そこから、持続的でコントロール可能なエネルギーを取り出さなくてはいけない。そこにこそ演奏家たるべく職業的訓練を要す。なお、「息の支え」と「空気の柱」の二つは、私の中ではほぼ同義語だが、いささかのニュアンスの違いを次に記す。また、これに関連して「吸気主動」という言葉も知ってほしい。

「息の支え」という表現について。
肺の中の空気は、音を出し始めた瞬間からどんどん減っていく。たくさん息を吸ってから、なにも意識せずに息を吐くと、大きな溜息をつくようなことになってしまう。最初は大量に出て、その後は先細りになる。それでは演奏に必要な素材とはならないので、息が余っているときにも足りないときにも、一定の量の空気が送り出せるようにしなくてはいけない。その感覚を「支える」という言葉で表現している。

ここで「吸気主動」という概念を説明しなくてはならない。いっぱいに空気を吸った後は、息は出ようとする力に満ちている。そこへさらに吐こうとする力を加えれば、あっという間に息は尽きてしまう。歌や管楽器のブレスというのは、息が出ようとする力を抑えながら(吸気努力を続けながら)コントロールされているのだ。注意深い人なら気づいているかもしれないが、ピアニッシモで音を延ばそうとする場合、吐くための筋肉よりも吸うための筋肉をより多く使っている。

息の流れを一定にするために、喉を締めたり、舌を上げたり、必要以上にアンブシュアを締め付けたりしてコントロールしてはならない。アンブシュアの適度な抵抗を感じつつ、お腹の筋肉でコントロールすること。吸気主動がうまく行われるようになると、音と音の間で短いブレスを取るとき、空気は吸うものではなく自然に肺に戻るものなのだという感触が得られるだろう。

「空気の柱」という表現について。
空気の柱、コロン・デール(仏、Colonne d'Air)、エアー・コロン(英、Air Column)という言葉は、ブレスのことを説明するときにしばしば使われる表現だ。息が効率よく音に変換されている場合、息はいわば「柱」のような存在として体内にはっきりと感じられるものだ。肺の底から(感覚的には腹の底から、人によっては足の爪先から)マウスピースの先端に至るまで、何物にも邪魔されることのない空気のつながりができている感じ。息がリードの振動に変換される際に発生する心地良い抵抗によって加圧された空気が、体内の息の通り道に充満している感じ。過不足ない圧力の息が、その瞬間瞬間の表現にふさわしい音を生みだして行く。(管楽器の管の中の震動する空気の存在を「空気の柱」と言う向きもあるようだが、ここではそれは割愛した。)

以上のような呼吸に関する運動が、もっとも合理的に行なわれる姿勢がすなわち、よい姿勢である。胸はある程度高く保持され、肋骨は拡がり、肺が大きく保たれるようにする。首とお腹には余計な力が入らないようにする。特に、首は縮めないように。体の前面rも背中もスッと伸びて、からだ全体が上から軽く引っ張りあげられているような感じになる。お尻の筋肉はやや絞り気味。これは同時に、舞台映えのする姿勢でもある。よい姿勢には力みがない。

ここで注意を促しておきたいのは、多くの人が腹式呼吸や息の支えというものについて、誤った認識を持っていることだ。楽器を始めたばかりのとき、ブラスバンド部の先輩や先生に、「腹式呼吸とは息を吸ったときに腹がふくらみ、吐いたときにひっこむのだ。その際、肩は上下しないのだ」、というように教わった人も多いと思う。私もまたこの方法で指導された者の一人であるが、今はその方法に反対を唱えるものである。

これは平静にしているときの現象であって、楽器を吹くためには当てはまらない。楽器を演奏するとき、わざと腹をふくらませたりひっこめたりしても、何の意味もない。「腹に息を入れる」という感覚的な言い方にしたがって、お腹が大きくふくらめばたくさん息が吸えているかのように、勘違いしてしまっている人が多いことも憂慮すべきだ。この方法だと、実際には肺いっぱいに空気を満たすことはできない。この方法はまた、喉を固くすることや、ブレスを取る際の雑音にもつながってしまう。

笑ったり咳をしたりするとき、誰がいちいち腹を固くして準備などしよう。誰もしない。音楽表現の場でそのようなことをしていたら、瞬間瞬間のニュアンスの変化など望むべくもない。この辺の考え方については、声楽の分野ではかなり確立されている。声楽に興味をもつことは非常に大切である。


5 タンギングについて

タンギングは、空気の柱の切り売りだ。クリアで雑音の少ない、しかも素早いタンギングが行なえるようにしたい。重要なのは、タンギングによってソノリテが損なわれないようにすることである。ソノリテがダメなのにタンギングがきれいということは、金輪際あり得ない。以下に、「私なり」の中庸なタンギングのやり方を記してみたいと思う。この辺の説明は煩雑であるが、しばし我慢を。

タンギングの瞬間、舌はリードとマウスピースの先端部分に触れるわけだが、その時、私の場合、舌の先端は、巻き込んだ下唇の内側および下歯の裏側にも同時に触れる。リードとマウスピースの間にできる隙間に、ほんの少し食い込むような形で舌は触れている。その位置は舌の先端から1cmから1.5cm位。もちろん個人差はある(アメリカ留学中、ヘムケから、舌の先端でタンギングするよう指導されたが、ついにモノにならなかった。母語による舌の運動の違いなのだろうか)。舌を触れることによって、その隙間をうまくふさぐことが肝要。舌が固すぎて、あるいは位置が悪くて、隙間の一部しかふさぐことができないのは大きな問題だ。不明瞭なアーティキュレイションの原因にもなる。特にスタッカートの時にうまく音が分離せず、音が糸を引いたように残る原因になる。しかし、舌がべったりと広い面積にわたりリードに押しつけられるのではない。これは盛大な雑音の原因となる。かと言って、リードにはほとんど触れず、巻き込んだ下唇にばかり触れているというのでもない。舌の中ほどが盛り上がり過ぎて、硬口蓋(口の天井)や上歯の付け根付近に触れている人も時々いるので、気をつけること。舌は比較的しっかりとリードとマウスピースの先端部分をすばやく押し、すばやく離れる。舌の付け根、喉はあまり動かない。以上がタンギングの基本。これを標準として、触れるか触れないかの曖昧なタンギングから、荒々しいスラップ・タンギングまでの様々なニュアンスを体得してほしい。

素早い舌の動きを得るためには、舌の筋肉の鍛錬(負荷練習)が必要である。一つ方の方法として以下のようなものがある。1日1〜2回、4分音符イコール100程度で、16分音符のタンギングを休み無く1分間続けることからスタートする(途中ブレスはとってもよろしい)。初めのうちはきつく感じられるかもしれないが、毎日練習すること。1〜2週間にメトロノームの目盛りを一つずつ上げていくつもりで、気長に練習する。数カ月後には、見違えるように素早い舌の動きが得られる(かもしれない)。シングル・タンギングで4分音符イコール(瞬間最大風速的に)132までは行きたい。

また、舌をほとんどリードから離さず「震わせる」ように動かすやり方を試してみるのも良い。ほとんど痙攣的な舌の動きを、徐々に自分のコントロール下に置くようにしていく。しかし、「自分のタンギングの方法はどうもおかしいのではないか」と思っている人は、これらの練習はやめた方がよい。悪習を増長させるだけだったりするから。

美しいスタッカートには、美しいソノリテと無理のないタンギングがまず必要である。問題なのは、音と音の間、音が途切れている時間の舌の状態である。リードとマウスピースの間に息が漏れ出て行かない程度の軽い力で、舌がリードに触れているべきだと考える。往々にして、舌がリードに触れているあいだに舌や唇、ブレスなどに力みが生じてくる。その結果、次の音の出だしが、汚くなってしまうということが起きる。

音=息が止まっている間も、舌がリードに触れていることを除けば、体のほかの部分は素晴らしいソノリテで吹いているときと同じように保たれているのが理想的であると思う。そこにこそ演奏家たるべく職業的訓練を要す。これは高度な技術だと思う。

初心者に対して「スタッカートは舌だけで行うべき」と教える人が多い。私も最初そのように教えられ、生徒にもそのように教えている。しかし、実際に自分が演奏するときには、多くの場合、舌とブレスの協同でスタッカートをしている。ブレスだけで行うこともある。

舌だけのスタッカートは、初学者にスタッカートの原則を教えるときの他、テンポがとても速いときや、わざとセッコな感じを出したいときに使う。

考えてみれば、声楽ではブレスでのスタッカートは当たり前のことだし、フルートやバスーンを始めとするほかの管楽器では、昔からこの方法で様々のニュアンスを表現していたのだった。

上に述べた以外の方法でうまく行っているのなら、それはそれでよい。上に述べたことはあくまでも、私の考える原則的な方法である。自分なりの練習方法を考案することも楽しい。ただし、いつもソノリテは保つこと。継続すること。弦楽器のボウイングによって生みだされる多彩な音の立ち上がりに匹敵するような表現を、舌と息との共同作業によって実現させたい。


6  ヴィブラートについて

サクソフォーンの場合、ヴィブラートは顎でかけるのが大原則。ヴィブラートには、その演奏家の音楽的趣味がもっともあらわに露出すると言って良い。弦楽器奏者の左手のように柔軟で無駄のない動き、これが我々の下顎に求められる。とは言っても、外からその動きはほとんど見えないのだが。下顎は柔軟に保つことが大切。筋肉の硬直した顎は、ぎこちない痙攣的なヴィブラートをもたらす。逆にゆるすぎる顎は、非クラシカルなヴィブラートを生みだす。ソノリテがダメなのにヴィブラートがきれいということは、金輪際あり得ない。

ある意味で、ヴィブラートの練習は、あまり大まじめにやるべきものではないと思われる。顎を緊張させてまじめに波の数を数えるようなやり方では、かえって不自然なものとなってしまう恐れがあるからだ。初めのうちは半ばふざけて、ヴィブラートを音の中で遊ばせたり暴れさせたりするぐらいの気持ちで行うのが良い。徐々に慣らして、コントロール下に置けるようにしていく。

よいソノリテ、正しいピッチを壊さず、表情豊かなヴィブラートをかける。もちろん、深さや速さは自在に変化すべきで、ときには全くかけないこともありうる。ただし、聴衆には豊かなソノリテが届くべきなのであって、ヴィブラートの波が押しつけられるというようなことになってはいけない。また、フレーズが伝わるべきなのであって、個々の音が並べたてられるようであってはいけない(ヘムケはこれを「notey」という造語で非難した)。

前にも述べたように、音がきたないのにヴィブラートだけはきれいと言うことはありえない。ヴィブラートの訓練、すなわちソノリテの追究であると言ってよい。くどいようだが、ヴィブラートにはその人の趣味が出る。顎の動きがどうのこうのと言う前に、よいイメージと批判的な耳が必要だ。

なお、「アンブシュア」「喉」「ブレス」「タンギング」「ヴィブラート」は、すべて有機的に関連している。どれか一つが不完全でも、ベストの演奏とはなりにくい。また逆に、どれか一つの分野が進歩を見せれば、それにつれて他の分野も改善されるということが往々にして起こる。


7  指について

サクソフォーンのキーはあらゆる木管楽器中、もっとも無造作に操作できる。だが、指のフォームをおろそかにしてはいけない。指先まで自分の命令、意志を正確に伝えるために必要なことだ。レガートの時の音のつながり、トリルの見事さのためにはぜひ必要。指のすべての関節が、内側に軽く曲がっていること。立て過ぎるのは良くない。指先の関節が逆に曲がっているのが、もっとも良くない。これは、自分の意志の届かないぶらぶらした(耳たぶのような)物体を振り回しているようなものだ。

弦楽器奏者の左手、ピアニストの腕・指などと同様、たゆみないトレーニングが必要なことは当然である。ただし、無理な練習での故障に気をつけなければいけない。急に進歩するものでもない。長ずれば、適度に脱力し、最小限の動きで素早くキーの開閉ができるようになるだろう(と希望する)。

指の練習と思ってやっていることの大半は、実は脳の訓練なのだ。指が動かないのではなく、脳が命令を出し損なっているのだ。手を変え品を変え、自分の脳に対して言い聞かせるのが、練習というものかもしれない。ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせよう。脳が納得すれば、指は動き始める。


8 音色の変化について

(ピアニカみたいに)自分の持っている音色がひとつしかないとしたら、吹く方も聴く方もとてもつまらないだろう。1曲をひとつの音色だけで吹き通すなんて考えられないことだ。微妙な音楽上の心理変化を表すのは音色なのだ。フレーズの性格によって、作品のスタイルによって色々な音色を奏でたいと思う。

まず手始めに、2種類の音色を持ちたい。その2種類は、差が大きければ大きいほどよい(もちろんクラシカルな、良い趣味の範囲内で。でもときには、非常に荒々しい音やうつろな音を出すこともありうる)。そして、その2種類の間には無限の段階があるように。

2種類の音色とは、硬い音とさらに硬い音、張った音とさらに張った音、やかましい音とさらにやかましい音、つまった音とさらにつまった音、という組み合わせではない。明るい音と暗い音、硬い音と柔らかい音、ダークな音とうつろな音、張った音と抜いた音、表の音と裏の音、ソロの音と伴奏の音などのことだ。これらの音色の中間に、豊富なニュアンスがある。

まず、イメージがあるべきだろう。それがなければ、音色の変化も当然ない。音色というものに対して敏感になること。サクソフォーンの著名な奏者の音はもちろん、ほかの管弦打楽器奏者や声楽家などに興味を持つことが大切だ。他の楽器奏者の工夫を知ろう。例えば、弦楽器なら、ボウイングの強さ速さ、弓を傾ける角度、擦る弦の位置、指板上では弦を指先で押さえるか指の腹で押さえるか。声なら、喉の構え、支える筋肉の位置、息の混ぜ方、体の響かせる場所。ピアノのタッチ。打楽器のアクション等々。ひとつの楽器からいろんな音を出そうと、みんな苦労している。他人の演奏を聴くとき、メロディーを追うだけでなく、音色の変化にも注目してみると良い。すごいことに気がつくかも知れない。 

ほかの楽器の音や声などに憧れたり嫉妬したりすることも必要だ。クラリネットの澄んだ音、フルートの滑らかさ、バスーンの気品と渋み、オーボエの輝きと濃さ、トランペットの密度の高さと音の立ち上がり、弦の繊細さと豪放さ。そして、それらすべての上位に立つ、声のニュアンスの豊かさ。これらに、いつも憧れている。それらの楽器を(表面を真似るのではなく)イメージしながらサクソフォーンを吹くと、どうなるだろう。まさか同じ音が出るわけはないが、そのあたりの「あがき」が面白さを生むのだと思う。聴衆には必ず伝わると信じたい。それから、当然のことながら、自分自身が豊富な感情を持つ人間であること。

どうやって音色の変化を出すか。端的に言えば、当人に豊富なイメージがあればあるほどよいのだ。あえて言えば、高級なイメージを持つ人には、素晴らしい音色の変化が生まれる。貧しいイメージしか持たない人はそれなりに。

技術的には、息とアンブシュアのコンビネーションで音色の変化が生ずる。例えば、顎で噛む噛まない、唇を締める締めない、顎を出す引く、舌の位置の高い低い、喉を広げる狭める、そして息のスピードの変化、お腹の支える場所(筋肉)の変化といった現実的な問題になる。テンションの高い音がほしいときには、比較的強めのアンブシュア、高め(狭め)の舌の位置、硬めの息。ドルチェ・カンタービレでは、ピッチが下がらない程度のリラックスしたアンブシュア、広めの喉、柔らかでふらつかない息。荒っぽい音では、顎を出し気味にする。その逆のサブトーンでは、顎を後退させる。

つきつめれば、柔らかい音が欲しいときには柔らかい声の出し方、鋭い音が欲しいときにはそのような歌い方をする、そこにたどり着くのではないだろうか。音色は、意図して使い分けるときと、自然に感情につれて変化するときがある。進歩した段階では、ある程度意図的に使い分けることも必要かと思う。


9 音程について

「差音」という現象はとても興味深い。二つの音が触れあったとき、その振動数の比率に応じて低い音が(同時にいくつかの音も)聞こえるという現象だ。完全4・5・8度や長短3・6度の音程がピタッとあったときは、第3の音である差音も美しい協和音程となることに快感を覚える。増減の音程のときにはえも言われぬ高いテンションの差音が鳴る。この差音こそが「和声」の出発点ではなかろうか。二つの音の振動数の比率が、単純な整数比であればそれを安定した美しい状態と感じる、人間の耳の不思議で精妙な仕組み。それが原点にあると思う。

完全音程は、英語では「パーフェクト・ピッチ」と言う。「完全」に合っているべきもので、ズレは許されない。それに対して、長短3・6度の音程は俗に「フォーギヴン・ピッチ」とも呼ばれ、多少のズレは許容される場合があるとい言われている。また、表情的な音程を取る可能性を持っているのも、長短の音程である。「平均率」という音律は、鍵盤楽器のためのものである。管楽器奏者(歌手と弦楽器奏者も)には、純粋なハーモニーを作り出せるという強みがある。発音の方法が十分に柔軟であれば、ハーモニーの中で自分の音をベストの音高、音色に置くことができるだろう。

私の知り合いのピアニストで、、まず楽譜を読んで頭の中で音楽を鳴らしてから、楽器に向かう人がいる。彼は、平均率で調律されたピアノの音に対して「ここはもっと低めに取りたい。ここはやや高めに」などと不満を感じながら弾いているそうだ。頭の中で鳴っている純正調の響きとの相違のため、そのように感じるのだ。


10 ソルフェージュについて

ここでいうソルフェージュとは、受験勉強用のそれ(聴音、初見視唱、コールユーブンゲンなど)ではなく、楽器の練習をする上で、あるいはアンサンブルをする上で有用な、補助的な訓練のことのつもりだ。

楽器の練習を実りあるものにするために、私がやっていることのひつつに「ソルミゼーション」がある。聞き慣れない語だが、何のことはない、メロディーをドレミで声に出して唱うことなのだ。面白いことに指やリズムが難しいところは、声でも歌えないことが分かる。音程の跳躍やリズムの複雑さが頭の中が整理できていないまま、しゃかりきになって楽器を練習しても、なかなか上達しない。体に余計な力が入ったりして、苦しまぎれの吹き方になってしまう。

そこで声に出して唱うことによって、頭の整理をしようというのがソルミゼーションの目的だ。唱うときは、音程などはどうでも良い(正確であればそれに越したことはないが)。ドレミとリズムが正確に唄えるようになれば充分である。  アンサンブルの場合、他のパートのリズムを口ずさめるようにするだけで、そのパートを聴く余裕が生まれてくる。

また、音程の取りにくいところも、声に出してみるとよりはっきりした音高を自覚することができると思う。


11 特殊な奏法について

サブトーン、ポルタメント、スラップ・タンギング、ハーフ・タンギング、グロウ(唸りながら吹くこと)、「不謹慎」なほどの自在なヴィブラート、スイングのリズム感、などのジャズ的な奏法に通じていることは、好ましいことだ。不器用でクソまじめな吹き方でなく、柔軟で融通のきくブレスやアンブシュアをもたらす。ジャズにはどんどん触れて欲しい。音色の変化やリラックスということなどについてのヒントを、たくさん含んでいる。

フラジオ、ダブル・タンギング、フラッター、重音奏法、循環呼吸もあまり構えず気楽にチャレンジしてみよう。遊びの中から有益なヒントが生まれることも多いのだ。それに現代の音楽の演奏に、これらの奏法は必須になりつつある。ただし、そればかり練習しないように。

それとこれは強く言っておきたいが、ジャズ奏者の音はけっして汚くもないし乱暴でもない。「ダイナミック」と「悪ふざけ」を混同してはいけない。また彼らはきちんとハーモニーの勉強をした上で、アドリブを展開しているのであって、行き当たりばったりのデタラメなど吹いてはいない。

クラシック系の奏者が、しばしば悪のりしてジャズを茶化して吹いているのは非常に不快な光景だ。もしやりたいのなら、ジャズに敬意をもって時間をかけて勉強して欲しい。両方を真っ当にやるのは本当に大変だが、それを実現している人を私は常々本当にうらやましく思っているのだ。


12 楽器・マウスピース・リガチャー・リードについて

極端なことを言えば、楽器は(有名メーカーのものであれば)タンポがきちんとふさがっていさえすれば良い。キズやヘコミは、ないに越したことはないが、さほど神経質になる必要もない。ただし、製造工程には、ロウ付けや磨きなど手作業の部分があるし、「音響焼鈍」といって「焼きなまし」などをするので、仕上がりにばらつきがある。だから、買うときは信頼できる人に選んでもらうのが良いだろう。当然だが、奏法の貧弱さを金や銀の楽器でおぎなうことは毛頭できない。

マウスピースは、楽器本体よりもはるかに重要性が高いパーツである。クラシック・サクソフォーンの場合、選択の範囲が非常に狭い。中庸なものを使うこと。手仕上げのため、やはり品質のばらつきがとても多いので、買うときはできれば信頼できる人に選んでもらうのが良い。

極言すれば、リガチャーは歪んでいなければそれで良い。高級リガチャーで弱点をカバーすることはできない。依存することは危険だ。とは言え、音の傾向を左右する重要なパーツであることは確かだ。

さまざまなパーツから成る楽器という道具のなかで、リードが最も重要性が高い。いつも良いリードで練習することは大切なことだ。悪いリードで練習してもあまり意味がない。悪い音質に、自分を慣らしてしまってはいけないからだ。リードにお金がかかるのは仕方がない。たくさん買って、その中から時間をかけて選ぶ。時には、自分で少し削ってみたりする(私は苦手)。必ず、湿らせてから吹く。でも、ベチョベチョはダメ。

良いリードとは、まず、豊かな響きを持ち、生き生きした反応があること。雑音が少ないこと。大きい音も小さい音も出せること。高い音も低い音も出せること。明るい音も暗い音も出せること。タンギングの反応が良いこと。耐久性があること。奏者が吹きやすく疲れにくいこと。

でも、そんなリードはそうそう見つからないことも認めなくてはならない。私も100点満点のリードで本番を迎えたことは、ほとんどない。ある程度及第点に達したリードたちと、妥協しながらつき合って行かなくてはならないのだ。リードケースの中は、いつも役者が揃っているようにしたい。


13 「アウフヘーベン」ということ

〈アウフヘーベン(独、Aufheben) 哲学用語。二つの矛盾した概念を、それらより一段と高い概念に調和統一すること。性格の反対な二つの考え(正と反)があるとき、その両者のうちから妥当な点、都合のよいところを採り、不当な又は都合の悪いところを除いて、新たにこの二つよりもいっそう高度の一つの考え(合)をまとめ上げる、その作用を言う。止揚。〉旺文社 国語辞典から。

車の走行性能と燃費を同時に向上させるための努力、とでも例えることができようか。より高い境地の奏法と解釈に到達するため、止揚されるべき二つの矛盾した概念とは、技術的な面では、リラックスしつつも強靭なアンブシュア、ソノリテを保ったスタッカート、音色の変化と音程の維持、速いフィンガリングと腕のリラックス、興奮状態でミスをしないためにはといったことも対象になり得る。


14 メソード、エチュード、CD

【メソード】
●大室勇一:サクソフォーン教本(全音)  
読譜と奏法の両面で、初心者が楽にスタートできるよう、非常にクレバーな構成となっている。
 
私が音楽大学で著者の大室先生に師事しているときに発売された。 「あえて初心者向きにやさしいメソードを書いた」と先生は言っていた。先生の知性と経験を持ってすれば、高度な内容のものも書けただろうと思うが、それをしなかった先生の見識は、やはり教育者として立派だと思う。

●トレバー・ワイ/井上訳:フルート教本 1〜6巻(音友)
音質やテクニックについての、フルートの進んだ考え方が学べる。音域と多少の楽器の事情に配慮すれば、サクソフォーンのためのメソードとしても優れている。
私がこの本から学んだことは計り知れないほど大きい。もしこの本に巡り会わなかったら、と思うとゾッとするほどだ。
●デビッド・リーブマン:サクソフォーン上達法
何とも直截なタイトルである。この本の第4章「倍音練習」はとても興味深い。この練習をすることを通じて、私は楽器とよりフレンドリーになれたと実感している。

【エチュード】
ごく当たり前のものだけを記してみた。それぞれに大切な要素を持つ練習曲が収められている。しかし、そろそろ新しいエチュードの体系を模索するときかもしれない。

●ラクール:50のエチュード(Bil)
クラシカル・サクソフォーン入門の決定版。この50曲を通して読譜、解釈、レガート、スタッカート、強弱の変化などを学ぶ。
●ミュール:音階と分散和音(Led)
分量は多いが、音階と言えばこれ。このほかにも、それぞれ工夫された音階練習の本があるが、最終Iには全調の音階と分散和音が、楽に吹けるようになればよい。
●ロンデックス:音程の正確さのために
ユニゾン、3度、4度、5度、6度、8度などを正しくつかむための練習。 単純かつ困難。自己嫌悪必至。
●ブレーマン:20の旋律的なエチュード(Led)
歌うこととアーティキュレーションを学ぶ。長くてつまらないエチュードの代表とも言われる。しかし、良い音でちゃんと歌って吹けば、楽しさはある。
●クローゼ/ミュール:25の日々の課題(Led)
テクニックとアーティキュレーションを学ぶ。ランニング・スタイルのエチュードで、受験生が最初にメカニックで悩まされるのがこれ。練習法の練習でもある。
●クローゼ/ミュール:15の歌謡的練習曲(Led)
上記のことに加え、速い動きの中でも音楽的に歌いながら演奏することをねらった練習曲。
●ベルビギエ/ミュール:18のエチュード(Led)
元々はフルートのためのエチュードで、ミュールがサックス用に編纂した。本格的なテクニックのトレーニングのための、始めの一冊。ビヨードから、アルテが編曲した二重奏版もでている(廃版かも)。
●フェルリング/ミュール:48のエチュード(Led)
サクソフォニスト必携。多くの音大で課題曲になっている。19世紀の音楽の正統的なスタイルを学ぶ。作曲者はオーボイストで元々はオーボエ用の練習曲。ビヨードからでているピエルロ監修のオーボエ版では、テンポについて参考になる点も多い。
●ロンキン&フラスコッティ:オーケストラル・サクソフォニスト1・2(Roncorp)
オーケストラにおけるサクソフォーン・パートの抜粋。

【書籍】
五線譜に書かれたものを一所懸命にやってさえいれば上達できるというものではない。文章から触発されることは、とても多い。
●トレバー・ワイ/井上訳:フルート奏方の基礎(音友)
ワイ氏の考え方は、我々の楽器にも参考になる。読み物としても面白く、プロの演奏家、教育者の意見として興味深い。かなり厳しい意見も含まれている。
●ラリー・ティール/大室訳:サクソフォーン演奏技法(全音)
クラシカル・サクソフォーンの吹き方を専門的に説いた、ほぼ最初の本。理論編。昔から、アメリカ人はこの手の文字の多い本を出す、フランス人は対照的に音符で占められた本を出すという傾向があるようだ。

【CD】
面白いCDがある。以下に挙げたのは推薦盤というより、私が影響を受けたもの。

●The History of the Saxophone CC-0040(Clarinet Classics)
これを聴くと、日本のクラシック・サックスというのは、日本のビールと同じで、個々の違いを主張しつつも似たり寄ったりだということに気づかされる(日本のビールは、ほとんどすべてが「ピルスナー」と呼ばれるタイプのもので、世界中には数多くのヴの個性的なビールがあるのだ)。
●サクソフォーンの芸術 TOCE-7697-99(東芝EMI)
●マルセル・ミュールの芸術 YMCD-1052・53(山野楽器)
●Marcel Mule CC-0013(Clarinet Classics)
ミュール、デファイエ、ロンデックスというのは、はずせないでしょう。これらを聴くと、一時代を画した彼らの素晴らしさを認めつつも、自分がそこから逸れてきていることを自覚する。
●meeting POINT SLCD-6010(SILVA CLASSICS)
このジェラルド・マクリスタル君というのが、バカにうまい。この人に限らず、イギリスのサックス界はかなり要注意。10年後には彼らが世界のサックス界を席巻しているかもしれない。
●Officium POCC-1022(ECM)
ヤン・ガルバレクは最高。ヒリヤード・アンサンブルも最高。

これらのCDのほかにも、オーケストラの中でサクソフォーンが活躍する作品も聴いて欲しい。ビゼーの組曲「アルルの女」、ムソルグスキー作曲ラヴェル編曲の組曲「展覧会の絵」、ラヴェルの「ボレロ」、プロコフィエフの「キージェ中尉」、「ロメオとジュリエット」、ガーシュウィンの諸作品ぐらいは当然耳にしていると思う。少し手を広げて、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ミヨーの「世界の創造」、バーンスタインの「シンフォニック・ダンス」、ブリテンの「鎮魂交響曲」なども聴いてみることを勧める。CDを聴くとき、楽譜が手元にあればなお良い。

実演に触れるチャンスがあれば積極的に、出かけていくこと。いつの日か、それらの曲で、オケのエキストラとして呼ばれるときが来るかもしれないのだから。



第2章

説教じみた話

サクソフォーンの学生諸君、もうキタナイ音を出すのはやめにしよう。サクソフォーンもほかの管楽器や弦楽器、そして歌などと同じように、多くの人に受け入れられる表現をめざすべきだ。「よい趣味」からあまりに離れてしまってはいないか。大切なのは美しいソノリテ、美しいハーモニー、必然性のあるフレージングだ。「デニゾフ」(モチロン名曲です)は何とか吹けるけど、かーらーすー、なぜなくのー‥‥の「七つの子」がきれいに吹けないというのは、どう考えてもおかしいでしょう。

1  クラシック・サクソフォーンのおかれている立場

この楽器のために書かれた曲の多くが、テクニックを試すような性質をもっている。サクソフォーンのフィンガリングは大変容易なので、曲を書くほうも吹くほうもいきおいそういう側面を強く意識してしまいがちだ。パリ音楽院の卒業試験曲などその最たるものだろう。もちろんデザンクロの作品をはじめとして素晴しい曲もある。しかしサックスにはバッハの曲がない。古典派もロマン派もない。オーソドックスなハーモニーやフレージングに関する体験や勉強をほとんど経ないで、一気に近・現代の音楽に突入してしまう。その結果、分かっても分からなくても、とにかく音符を追いかけて音にすることが全てになってしまう。まるで、漢字がやっと読めるようになった子どもに、フーコーを読ませるようなものだ。また、レパートリーがあまりにもフランスものに片寄りすぎていて、選択の余地が少ない。それがこの楽器のややいびつな発達の原因の一つだと思う。こういう状態に、まず気がついて欲しいと願う。

日本の多くの音楽大学にはサクソフォ−ン科が設置されており、この少子化のご時世にも関わらず依然としてこの楽器の受験生だけは減ることがない。フルートやオーボエ、クラリネットでは、発音やフィンガリングの困難さから、楽器を始めた初期の段階であきらめてしまう人が多い。特に、ダブルリード楽器では、リード作りで多くの人がめげてしまう。サックスの場合、初期の段階での技術的な壁が低いため、不向きな人もその事実に気づくことなく受験を迎えてしまうという事情があるようだ(キツイ言い方だが)。全国の音大のサックス科からは、毎年ゆうに100人以上もの卒業生を出している。このことだけを見ると日本のサックス界は盛んだといえるかもしれない。しかし本当にそうだろうか。


2  学生及びプロの現状

学生諸君の演奏を聴き、自分も含めたプロ奏者の演奏を反省すると、音符の速い動きを何とかかんとか吹き通して満足している人が多いように思われる。その音はと言うと、時々耳をふさぎたくなるようなことがある。指だけはよく動いて(といっても、よく聴くとリズムも響きも不揃いで音まで神経が回らない。長い間この楽器をやっていると、キーノイズやブレスのときの雑音などがあまり気にならなくなってくる。同様のことが音質にたいしても起きているのではないだろうか。ひどい音を出している本人が一番その症状に気付いていない。響きや歌というものに興味はないのだろうか。自分の出しているひどい音が、遠くでは美しく響いているとでも思っているのだろうか。音色の変化など望むべくもない。この楽器は簡単に音が出せてしまうが、そこから先の進歩がない。あらゆる管楽器の中で、最も音に対する努力、工夫が足りない。

表現とは何だろう。表現とは感情をぶちまけることだ、と勘違いしている人がいるようだ。音楽作品には、その時代特有、その作曲家固有のスタイル(様式感)がある。楽譜の向こう側にあるそういったイメージを解釈し表現するのが、演奏家の仕事だ。音色やテクニックはそのためにある。楽譜通り指を動かしていれば良いというものではない。また、自分勝手な底の浅い解釈で感情を振り撒けばいいというものでもない。そこに勉強や経験が必要なのだ。そして解釈や表現といったものには、完成はない。

ソノリテとはどんなものだろう。音の通り、純粋さ、音色の変化、ヴィブラートの表情、量感など全てを含む言葉だ。単なる耳ざわりのよい音ではない。刺激的な音でもない。知的で洗練された情報量の多い音のことだ(この辺り、トレバー・ワイの受け売り)。

私を含めたプロの演奏家がこの辺のことをすべてクリアできているかといったら、残念ながらそうではない。プロに無批判に追従するのは良くないし、危険でさえある。このままでは、サクソフォーンはクラシック界の鼻つまみ者になってしまう恐れがある。現に他の管楽器の奏者、教師の中には、この楽器に対する嫌悪感を隠さない人々もいる。残念なことだが、現状ではそれも無理ないのかもしれない。


3 他の楽器に学ぶ

直接、有名なサクソフォニストのまねをしようとすることは、大変危険な面がある。それぞれの音楽家はとてもユニークで強烈な個性の持ち主であることが多いので、自分の音楽がまだ見つかっていない人にとっては毒になる場合もある。マルセル・ミュールのイベールは素晴らしいが、まねをしてはいけない。自己嫌悪に陥るだけである。ダニエル・デファイエの音は魅力的だが、まねをしてはいけない。自分の奏法を壊してしまうだろう。あれは彼にしか出せない音なのだ。とは言え、その魅力に抗うことはなかなか難しいことも確かだ。

名サクソフォニストのまねをするだけではなく、素晴しい歌い手や弦楽器奏者、他の管楽器の名人の演奏を研究して欲しい。ランダムに挙げて行けば、声楽のキリ・テ・カナワ、パヴァロッティ、ピアノのピュイグ=ロジェ、チェロのペレーニ、フルートのベネット、オーボエのホリガー、クラリネットのアリニョン、トランペットのアンドレ、などなど。(自分の好きな奏者を付け加えて下さい)

オーケストラの中で鍛えられた楽器には、よくも悪くも音楽的な常識のようなものが備わっている。オケの楽器にとって大切なのは、美しい音色とハーモニー、正しいリズム、変な癖のない歌い方だと思う。それが出来ない者は、立派なオーケストラ奏者として認めてもらえない。必然的にソロの時もそういうことに注意している様に思われる。サックスの場合、オケのような場で厳しく批判され鍛えられることがないので、中には音楽性や個性というものを勘違いして、堂々と変な癖で吹いている人も多い。そのような人は、自分ではなかなか気づくことができない。

私は、室内楽アンサンブルの一員として、弦楽器と共に演奏する機会をしばしば持っている。アンサンブルといえばサクソフォーン四重奏ばかりのこの楽器の状況の中にあって、得がたい経験をしていると思う。また、弦の人たちのボウイングをそばで見ることができるのはとても勉強になる。また、オーケストラのエキストラの仕事は、楽しくもあるが試練でもある。あの高い緊張感の中で確実に仕事をするというのは、真の力を試されることだ。ベストの瞬間にベストの音を置けるかどうか、ということが問われる。サクソフォーン同士のアンサンブルもいいけど、神経をあまり使わなくてよいから楽だというのでは困る。他の楽器の繊細さに太刀打ちできなくては。

フルートには注目すべき教則本がある。マルセル・モイーズの「ソノリテについて」(Leduc)を見ると、そこにある音色への探究心には敬服させられる。それをさらに理解しやすい形で著わしたのが、トレバー・ワイの「フルート教本」1(音友)である。これを読んで実際にやってみたときは、それまで困っていたこと疑問に思っていたことが、一つずつ氷解していくようだった。現在の自分があるのはこの教則本との出会いがあったからといっても過言ではない。自分にとっての合理的な吹き方、そこから生まれるのが自分にとっての美しい音の原形である。これはいくら強調してもし足りない。それを早く見つけ、大切に育てるのが音楽学生の本分であり、教師の義務であると思う。

自分の思った瞬間に自分の感じた音色を出すことができる。このことができずして、何の表現か。解釈とか趣味などというのは、そのあとに自然について来るものだ。まず基礎が大切であるに決まっている。声楽を見てほしい。近年は、合理的な唱法で美しい響きや正確なテクニックを身につけることが非常に重視されている。そのためのメソードもさまざまに工夫されている。


4 これから

マルセル・ミュールの吹くイベールその他の曲の演奏を聴いて、その滑らかさに驚嘆したことはあるだろう。イベールはあのような楽々とした完璧なソノリテで演奏されなければならない。ギリギリ、バリバリした音、つまったような響きでは何の意味もない。そして、こうも考えたことはないだろうか。なぜミュールのような音のままサックスは発展してこなかったのだろうと。私の考え方は古いのだろうか。

ミュールから始まったクラシック・サクソフォ−ンの演奏の歴史は、今までが伸長期とするなら、これからは充実期とならなくてはいけない。私はクラシック音楽というものを追求し演奏しようとしている。クラシックとは「古いもの」と言う意味ではなく、「時代の波に耐えて生き残ってきた、価値あるもの」という意味だと思う。新しいものに対する好奇心はとても大切なことだけど、それだけに傾きすぎると、この楽器の未来は危うい。いまサクソフォニストに求められているのは、クラシック音楽の列に本当の意味で連なることではないだろうか。


5 稽古の掟

「原因を単純な要素に分解して、単純な練習方法によって克服する」by Carl Flesch
「時間と忍耐、そして知的練習の問題」by Trevor Wye
「難しいことを追い求めるな、易しいことを追い求めよ」 by Marcel Mule

体調は、いつも整えておくこと。
楽器のコンディションにも注意を払うこと。
楽器を吹く前には、それとなく体をほぐすこと。
練習中は、腕の筋肉を冷やさないこと。
ウォームアップは、何でもいいから最低でも20〜30分はすること。
休憩時間は、横になってもいいし、散歩やストレッチもいい。煙草は吸わない。
練習が面白くても、唇や指はいたわること。
1週間の内、1日だけは休んでよろしい。
苦手な指づかいは、必ずゆっくりさらうこと。
いつも、新しい曲を少しずつ譜読みしていること。
たまには、昔やった曲を引っ張りだす。
メトロノームとはお友達。楽しいリズム変奏。
鉛筆ですぐ書き込みをする。
目を開けて吹いたり、閉じて吹いたり。
立って吹いたり、座って吹いたり、鏡の前で吹いたり。
声に出して歌ってみたり。
時々、練習場所を変えてみる。
先々を見越して、練習スケジュールを立てること。
スランプは、まあ、しょうがない。
継続は力。
でも、年に1回ぐらいは、1週間ほど稽古をやめて全然別のことをするといい。

注意深く、冷静に、しかも熱中して。
堅実に、だが興奮して。
楽しみながら、同時に意地になって。
客観的に、また主観的に。
ゆったりと、時には切羽詰まって。
自分に腹を立てながら、他人を嫉妬しながら。
禁欲的に、そして陶酔しながら。
自虐的に、悲壮な決意で、バリバリと、ギリギリと。
自信を持って、でも疑って。
恐怖心から、功名心から、競争心から。
ひとりぼっちで、たまには和気あいあいと。
作品のため、試験のため、コンクールのため、ギャラのため、どこかの誰かに聴いてもらうため。
そして、自分自身の納得とプライドのために、さらってさらってさらいまくれ!



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