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わが楽器を語る「サクソフォーンの真の音を求めて」
サクソフォーン奏者 大室勇一
「特許番号3226番、1846年6月22日交付」。パンの笛だとか、アポロンのたて琴だとか、楽器の紀元はロマンティックな物語につつまれていることが多いのに、サクソフォーンの場合はどうも夢がない。しかし、これは文句を言ってもしかたがないことで、われわれは発明者のアドルフ・サックスに感謝するのが当然である。そして、むしろヒンデミットがその著書の中で述べているように、「18世紀の末頃から管弦楽が急速な進歩をとげ、その要求を満たそうと新しい楽器がたくさん現れたけれども、その中で生き続ける能力と重要さを持っていたのは、サクソフォーンだけだった」という点に誇りを感じたい。彼はまた「自由な技巧と豊かな表現力と直接心に語りかける力をもち、全体のバランスがよくとれているサクソフォーンと肩をならべるのはフルートだけである」とも言っている。

「へえー、サクソフォーンにクラシックもできるんですか」と驚く人もめずらしくないほど、現在ジャズやポピュラー音楽におけるサクソフォーンの存在は強烈である。クラシックのサクソフォーンがあまり一般の人たちに理解されていないのは、アメリカでも同じことで、パーティーでたびたびオジサンやオバサンたちからクラシックのサクソフォーンについて説明を求められ、サクソフォーンの勉強のためにアメリカにきた私が、なぜアメリカ人にサクソフォーンについて教えなければならないのかと、チョッピリ複雑な気持になったこともあった。
サクソフォーンは、どうしてジャズの分野で好んで使われるようになったのだろうか? ある人によると「ジャズは聴衆を興奮させ、陶酔させるために極端な音を必要とする。その要求を満たすのにフルートやオーボエやホルンよりも、物理的に衝撃音を出すことに優れているサクソフォーンが適していたからである」ということになる。そして「ただし衝撃音はアドルフ・サックスが意図した本来のクラシックのサクソフォーンとは無関係である。その衝撃音がサクソフォーンのすべてであるとクラシックの作曲家や聴衆に思い込まれてしまったことは、クラシックのサクソフォーンにとっては不幸なことだった」と続く。
これはある意味で一理あると思うけれど、私自身は聴く立場からはジャズもクラシック同様に好きなので、「ジャズ・サクソフォーン反対!」などと言うつもりは毛頭ない。文句を言ったところで、それは八つ当たりというものである。クラシックのサクソフォーンが盛んにならないのは、奏者や教育者の努力が足りないからで、われわれみんなの責任であると思う。
吹奏楽の中のサクソフォーンはどんなスタイルで演奏したらよいのか? もちろん他の管楽器同様、それは基本的にはクラシックのスタイルでなくてはならない。これは言葉の上では理解されているのだが、実際の演奏においては、特に音色に関してそうなっていないことが多い。日常、テレビ、ラジオ、レコード、演奏会などでは、クラシックよりもジャズ、ポピュラーのサクソフォーンを耳にすることが圧倒的に多いので、その音に慣れてしまい、無意識のうちにその音色が目標になっていることが多い。
中にはもっと意識的に「今度のバッハのプレリュードに出てくるテナーのソロ、なんでサム・テイラーみたいなフィーリングで吹けないんだろう」と見当違いに悩んでいる人もいるかもしれない。ジャズはジャズらしく、クラシックはクラシックらしくあるべきである(クラシックの中でも、ショパンはショパン、ベートーヴェンはベートーヴェンでなければならないように)。
この二つを混同することは危険である。同じサクソフォーンという楽器であっても、音楽的にはまったく異なった楽器として認識する必要がある。クラシックのサクソフォーンはレコードもさほど多くないし、演奏会も少ないので、その音に慣れる機会を作るのに苦労するかもしれないが、その少ないチャンスを最大限に生かして欲しい。

私が中学校でサクソフォーンをを始めた頃は、トンチンカンなことばかりで、厚すぎるリードは削ればよいことを知らなかったばかりに、演奏会の2,3日前からリードを水に浸しておいて、当日になっても厚さは変わらないのでマッサオになったり、タンギングを知らなくて息で音を切っていたので、早いスタッカートときにはもう死ぬのではないかと思ったり、そんなことの連続だった。ただ指導者の秋山紀夫先生がマルセル・ミュールのレコードをときどき聴かせてくださったおかげで、あれが本当のサクソフォーンなのだ(私のサクソフォーンとは似ても似つかないけれど)という音のイメージは、私の頭の中に植えつけられたと 思う。この点に関しては私は今でも先生に感謝している。
サクソフォーンはやさしい楽器だという人がいる。「汽車の窓から出しておけば音が鳴る」とひどい冗談を言う人もいる。汽車の窓はともかく、物理的に音を出すのはやさしいかもしれないけれども、少しでもサクソフォーンを学んだことのある人なら、音楽的な音を出そうと思ったときには、他の管楽器に勝るとも劣らぬほど苦労することは知っているはずである。簡単に音が出ることでその楽器の難しさを判断するのなら、ピアノや声楽はどうなってしまうのだろう。
それでもまだ「簡単に音が出ない楽器よりはやさしいはず」とがんばる人もあるかもしれない。けれども、その簡単なところにオトシアナがあると思う。サクソフォーンを勉強する人がとかく陥りやすいのは、その初期の段階で音が簡単に出てしまうので、音についてはもう特別に注意を払う必要はないと判断して、あとは指の練習に終始してしまい、音の上での進歩がほとんど見られない状態である。
指についても同様のことが言える。サクソフォーンの運指は、クラリネットに比べれば、たしかにやさしい。クラリネットでは、少なくともある程度まで指の形を整えて穴をふさぐ苦労があるが、サクソフォーンの場合は、指を動かしていれば何となくメロディーが吹けてしまう。それを続けていると、むずかしいパッセージもだいたい格好がつく程度にはなる。けれどもそれは、やはり「何となく」であって正確なメカニズムにはつながって行かない。初めから指のメカニズムについて神経のゆきとどいた練習が必要である。
初心者に関係のあることをもう一つ。サクソフォーンを始める前にクラリネットを勉強した方がよいという誤った説がまだ残っている。たしかに一枚リードという点では共通しているし、トランペットよりはクラリネットの方がサクソフォーンに近いかもしれない。習慣的にジャズ・バンドでは一人の奏者が2本の楽器を持ち替えたり、オーケストラでもクラリネットの奏者がサクソフォーンを吹くことが多いので、奏法上もかなり関連があるように、または関連付けなければならないように思うのかもしれないが、それは錯覚である。私もクラリネットが好きなので、学生時代かなり勉強した経験があるけれど、それは別に技術的な理由で勉強したのではない。サクソフォーンはクラリネットとはまったく別の楽器でサクソフォーンをクラリネットらしく吹く必要はない。

「アメリカでどのくらいサクソフォーンの勉強ができるのだろうか?」。芸大の大学院を卒業した直後の1965年7月、そん な疑問を持ちながら、私はアメリカにわたった。その日本では、アメリカのクラシックのサクソフォーンについてはほとんど知られていなかったし、私自身も、将来、留学できるとしたら、絶対フランスにしようと決めて、学校の語学もフランス語しか取らなかったくらいである。しかし、具体的にフランスに行くチャンスはなさそうだったし、とにかく一度日本を出てみようと軽い気持ちでフルブライトの試験を受けたことから話が進んで、気がついたらアメリカ行きの飛行機の中だったというわけである。
初めの2カ月間、アリゾナ大学で英語の勉強をしたが、そこで最初に聴いたのがサクソフォーンの演奏会だった。それはアリゾナ大学の大学院の学生のリサイタルで、アメリカに来て初めて、それも砂漠の真中の田舎町で聴く音楽会がサクソフォーンだなんて「思っていたよりアメリカのクラシックのサクソフォーンは盛んらしい」と嬉しくなって、音楽会に出かけて行った。ところが演奏はひどいもので、帰りはションボリという具合だった。
その年の秋から2年間、イーストマンでオーセック先生の、2回の夏休みにノースウエスタンのサマー・セッションでヘムケ先生の教えを受けた。
オーセック先生は当時、ロチェスター・フィルハーモニーのクラリネット奏者で、サクソフォーンの演奏についても確固たる考えをもった方であった。その主張は、それまで私の耳に慣れていたフランスのサクソフォーンとは違ったものだったので、初めの何カ月かは迷いもあったけれど、結果的にはそういうサクソフォーンの良さも素直に感じられるようになり、私のサクソフォーンに対する視野を広くすることになったと思う。フランス派のサクソフォーンについてもウィンド・アンサンブルやその他の小さなアンサンブルで吹くことができたのも良い経験だった。
ノースウエスタン大学では、1週3回のレッスンは大変だったけれども、レッスン以外の科目は何も取らなかったので、練習する時間はたっぷりあったし、四重奏を楽しんだり、遊ぶ時間にも不自由しなかった。ヘムケ先生はウィスコンシン大学からフランスへ1年間留学し、パリ音楽院を一等賞で卒業した後、イーストマンの大学院で勉強した経歴の持主で、演奏家としてだけでなく、教育家としてもたいへん優れた方である。先生からは、サクソフォーンについての専門的なテクニック、アナリーゼのたいせつさ、個々の音楽のもつ「スタイル」を表現すること、 演奏をただ感覚的に、あるいはただ理論的にどちらか一方からだけとらえるのではなく、両者をうまく組み合わせることなど、多くのことを学んだ。
大した期待もなしに行ったにしては、アメリカでの経験が良い意味で意外な結果に終わったことは幸運だった。

クラシックのサクソフォーンの良い音とはどんな音だろうか?
フランスではマルセル・ミュールを頂点とするスタイルが一応確立されていて、音色についてもフランス派共通のものがあるように思えるが、アメリカや日本やその他の国々では、いろいろな人たちが色々な音でいろいろな演奏をしている。少なくとも良い音はたった一種類でないことはたしかである。「甘い音だから」とか「セックス・アッピールがあるから」とかを、サクソフォーンを好きな理由にする人がいる。演奏する方でもそのへんを目的にしている人もいる。もちろんそうした感じ方は個人の自由であるけれど、私にはそれはクラシックというよりもムード音楽の領域のように思えてならない。クラシックのサクソフォー ンは、ピアノやヴァイオリンや他の管楽器と同様に、音色も含めたその音楽全体がもっとアカデミックな次元を目標にすべきだと思っている。そして、それが達成されるかどうかに、サクソフォーンの将来もかかっていると思う。
「楽器は金メッキ、銀メッキ、ラッカーのどれが良いか?」がときどき問題になる。ある意味ではたいせつな問題かもしれないけれども、けっきょくはどうでもよいことではないだろうか。
サクソフォーンの演奏の本質には、ほとんど影響を及ぼすことはないように思う。同様にフランス的な演奏と、そうでない演奏との比較についても、音色が明るかったり暗かったり、ヴィブラートが早かったり緩やかだったり、表面的には違いはいろいろあるかもしれないけれども、それを問題にする以上に、その表面的なスタイルの陰にある、良い演奏に共通する基本的な奏法、音楽的な内容を重要に考えたいと思う。
良い音を求めることは、たいせつである。そのためにリード、マウスピース、アンブッシャーについて研究することはぜひ必要である。表現力を豊かにするためにアーティキュレイションを練習することもたいせつである。けれども、音楽を作り上げるための材料や道具であるべきこれらのことがらを追求することが、サクソフォーンを勉強する目的になってしまっていることがある。もし画家が良い絵具を探すこと、良いキャンヴァスを求めることがその目的だったらどうなるだろうか?

ヘムケ先生は日本へ来られたときに、クラシックのサクソフォーンが理解され、そしてかなり盛んに活動が行われているのを知ってびっくりされた。日本でのその基礎は阪口新先生によって作られ、先生は今もその発展のために努力を続けておられる。それでもまだ。サクソフォーンがじゅうぶん理解され、それにふさわしい地位を与えられているとは言えない。アメリカでも、まだじゅうぶんに一般の聴衆の支持を受けてはいない。フランスでも音楽界全般から見ると。サクソフォーンの地位はそれほど高いものではないらしい。
それでもクラシックのサクソフォーンは世界中で徐々に充実し、それに対する理解も深まりつつあることはたしかである。最近、ルデュック社から出版された「サクソフォーン音楽の125年」という本には、過去に作られた信じられないほどの数にのぼるサクソフォーンのための楽曲が載っている。
優れた作品が、今後より多く生まれるかどうかは、演奏家が格調の高い演奏で作曲家の創作意欲をかきたてることにかかっている。数年前にワールド・サクソフォーン・コングレス(世界サクソフォーン評議会)が結成された。第1回、第2回はシカゴで(阪口先生も参加された)、第3回は今年の八月にカナダのトロントで開催された。毎回アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ベルギー、その他の国から多くの参加者があり、演奏会や研究発表、演奏法や指導法についての討論会など、有意義な催しが数日間にわたり続けられる。これもサクソフォーンの発展のための、大きな足がかりになるに違いない。

1973年の「バンドジャーナル誌」から


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