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雲井雅人の「小言ばっかり」

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2004/06/25(金)  楽器を落とした話
そういえば数カ月前、こんなことがあった。
練習の後、僕が蓋をちゃんと閉じないでケースを持ち上げたものだから、楽器がケースから転がり出て床に落っこちてしまったことがあった。
当然、大きなへこみができた。音も出ない。

こんな間抜けなことをしたのは初めてで、「オレもヤキが回った。もうこれまでか」と諦めかけたが、小田桐工房でなおしてもらった。
その楽器でその後何回も本番をこなしています。
傷の場所もほとんど分からない。

ケースの蓋をちゃんと閉めなかった僕は、本当にアホウです。
このときは運良く助かったが、二度とせぬよう肝に銘じている。
なんと、僕のメインの楽器(sop. alt. ten.)はみんな10年選手です。
ネックとマウスピースはひんぱんに取り換えていますが、本体の方はキーのガタツキなどもない。

それに比べて、自分の体の方はあちこちガタが来はじめた。
楽器がくたばるのが早いか、こっちがくたばるのが早いか。

自分の体もいたわりつつ、楽器は大切にしていきたい。


2004/06/21(月)  新しいリンク
「サックスリペアの小田桐工房」をリンクしました。
メンバー全員、よく彼のお世話になっています。

練習していて、調子の悪さが、自分由来か楽器由来か分からないときは、とりあえずリペアマンにすがります。
楽器をバッチリにしておけば、安心して練習に邁進できるというものです。
疑心暗鬼のまま、低音のアタックの練習などできっこない。良いリードも見つからない。悪循環が始まるきっかけになってしまう。

本当に上手いプレーヤーが数少ないように、腕の確かなリペアマンもたくさんはいません。



2004/06/16(水)  バンドジャーナルの表紙
バンドジャーナル7月号の表紙を飾ることができて、まことに光栄に思っています。
表紙ってのは特別な感慨です。
今まで僕たちは笑顔の写真があんまりなかったので、なんか嬉しい。
インタビュー記事も、まじめな中にも笑える内容で、良かった。

ところが、このHPの「連載コーナー」と来たら、
 ぼんやりテレビを見ていたかと思うと、急に思い立ってバイクで放浪する人、
 練習もせずに、ひたすら読書と音楽鑑賞三昧の人、
 マージャンしながら、ウィスキーや焼酎に親しむ人、
 大学が忙し過ぎて、オタオタしている人、
で構成されているらしく思われる内容である。
練習してないんじゃないか、との印象を持たれるおそれがある。

我々は7月7日に向けて、それはそれは必死に練習をしております。
このことは明言しておきたいと思う次第です。


2004/06/08(火)  7月7日のプログラムノート
■私たちの四重奏団にとって、プログラム・ビルディングの根拠は、まず「自分たちがその作品から得るところがあるかどうか」です。バッハは、それこそ「汲めども尽きぬ」という言葉がぴったりで、演奏中の私たちに作品が絶えず多くのことを語りかけてきます。バッハの他の器楽作品の例にもれず、この「パルティータ第6番」でもさまざまな舞曲の形式を借りて、作曲家は技法の限りを尽くし、思いきり想像の羽根を伸ばしています。そういう作曲家の面白がりようが演奏家を楽しませ、ついでに(といっては語弊があるかも知れませんが)聴き手に伝わるといった感じでしょうか。譜ヅラからはバッハが「良い仕事をしている」ことがひしひしと伝わってきて、奏者はどの音符もゆるがせにできないのです。アレンジは、吹奏楽のみならず様々なジャンルで、近年めざましい活躍をしている八木澤教司氏にお願いしました。

■ケックレーは、1947年生まれのアメリカの作曲家です。ワシントン大学を卒業し、クリーヴランド音楽院から哲学博士号を得ています。日本が好きで何度も来日しているようです。タイトルの「ステッピング・アウト」は、back and forth のダンス・ステップを踏んでいるうちに、少しずつ作品の様相が変化して行くさまを表しています。日常的な感情から、いつの間にか演奏者と聴き手を不思議な場所に連れて行く力を持った作品です。第1楽章「最小の増幅装置」:ミニマル風の小さなステップの音型がファンキーに盛り上がって行きます。第2楽章「真夜中の反射」:夜中や朝早くにふと感じる、とりとめのないノスタルジックな感情を暗示しています。第3楽章「作者不祥」:中世の素朴なモテットを想起させる楽章です。第4楽章「易しいリフレイン」:全音階的な聴きやすいリフレインで出来ています(各楽章の題名は直訳。本来どの単語も潜在的意味を内包している)。日本初演。

■「教会ソナタ」は17の短い曲からなる小品集です。原曲は弦楽合奏とオルガンのために書かれています。本日はそこから3曲を抜き出してお聴きいただきます。弦楽器奏者やピアニストの友人たちが異口同音に言うには、「モーツァルトはムズカシイ。モーツァルトはコワイ」らしいです。「らしい」というのは、私たちサックス吹きはモーツァルトにまったく触れることなく修業期間を終え、そのコワサとやらを体験せずにプロになってしまうからです。Fl. Ob. Cl. Fg. などの木管楽器のために名作が残されていることを常々うらやましく思いつつ、「やっぱりサックスでモーツァルトなんてちょっと変だよな」という気持ちで長年過ごしてきたのでした。今回思い切って取り上げた結果、モーツァルトを敬して遠ざけてきた今までの日々を後悔することとなりました。何気ない音の動きに含まれる豊かなニュアンスは、演奏する喜びをもたらしてくれます。今さらこんなことを言っているなんて、音楽家として恥ずかしくもありますが、私たちモーツァルト初心者が、嬉々として演奏している様をご覧いただければ幸いです。

■現代フランスの作曲家パスカルが1962年に作曲した「サクソフォーン四重奏曲」からは、最先端ではないが、それだけによりリアルな現代というものを感じます。その曲調の親しみやすさから、サックスを学ぶ者なら修業時代に必ず一度は手がける曲です。あふれるような才気を感じさせる一方で、なにか「普段づかいの器」のような気安さも、この作品から受けるのです。大人になってから(という言い方もおかしいですが)この曲を吹いてみると、以前は気付かなかった洒落っ気や大胆さが、よりいっそう強く感じられるようになりました。フランスの一流紙「ル・フィガロ」に音楽評論を執筆し、パリ音楽院では有力な教授として運営に携わるなど、実務者としても活躍したパスカル。どの楽章も隅々まで精力的かつ緻密で、演奏者を休ませないその作風からは、作曲者の人物像がありありと見えるようです。 


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