2004/08/16(月)
棒振りの自分
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先日、生まれて初めて吹奏楽コンクールで棒を振った。これまで審査員を務めたことはあっても、演奏する側に立ったのは今回が初めてだった。 結果は銀賞だったが、練習、本番を通じて夢のような楽しい時間だった。
これ以前に僕がコンクールと名のつくものを受けたのは、1983年のジュネーヴ国際音楽コンクールが最後だ。 僕はその本選で、生まれて初めてオーケストラの前に立ってソロを演奏した。本選には、コンクール参加者84名中、3名が進んだ。 曲目は、フランク・マルタン作曲「アルト・サクソフォーンとオーケストラのためのバラード」、オーケストラはスイス・ロマンド管弦楽団。 僕はオケ前で吹くのはもちろん、それまでオケ中で吹いた経験もほとんどなかった。オケ前初体験が、このように異国の地で外国のオケの前でスイス人の指揮者とだったので、リハーサルでは何が何だか分からぬまま無我夢中で吹くだけだった。 本選では、むやみに楽しく音楽に没頭して演奏できたと思う。しかし好事魔多し。忘れもしない、練習番号[28]の4小節前でフラジオを一発はずしてしまったのだ。 結果、僕は「銀メダル1席」。ノーミスで吹いたアメリカのスティーヴン・ジョードハイムが1位なしの2位となった(ちなみに、その頃のジュネーヴは1位、2位の次が銀メダルとなっていた。銀メダル2席はスイスのコレットという人)。 あとで、そのとき審査員を務めていたヘムケ師匠に「なぜ君が最高位にならなかったか分かっているね」と言われた。厳しいもんだなと思った記憶がある。
今回初めて吹奏楽コンクールで棒を振ってみて、自分がやっているのは、やみくもで行き当たりばったりな指導であると感じた。 僕にはバンドの指揮や指導のノウハウはたいして無く、これまでの自分の音楽体験を吹奏楽に応用するしかないのだった。 したがって、自分の音楽的な特長や弱点が、バンドの演奏にモロに出る。それは恐ろしいほどだ。 ほかで書いた文章でも述べたことがあるが、植松寿樹の次の短歌のような心境である(大岡 信著「新 折々のうた1」より)。
大方の誤りたるは斯くのごと教へけらしと恥ぢておもほゆ
「枯山水」(昭和14年)所収。作者は銀行や商社を経て東京の芝中学の国語教師となり、大正12年以後昭和39年に没するまで、40年余りそこに勤めた。これは試験の答案を見ながらの感想。大勢の生徒が同一問題で誤った答えを書いていたのだが、これは自分がそのような教え方をしたのだろうと、「恥ぢて」思っているのである。こういう教師に教わった生徒らは、言うまでもなく幸せだった。(大岡 信著「新 折々のうた1」より)
僕に教わっているバンドのメンバーが幸せかどうか定かではないが、僕自身はいつも棒を振るときは新鮮であり、とても楽しい。 しかし、「無我夢中」、「没頭」、「やみくも」そして「凡ミス」。自分のやっていることは21年前にジュネーヴを受けたときとたいして変わっていないじゃないか。まだまだ勉強しなくてはならぬ。 吹奏楽に対してこんなに真剣になったのは初めてのことだ。それにやっぱり、審査をするより演奏するほうが何倍も楽しいことだと悟った。
林田選手の文章の真似をするわけじゃないが、「サックスでプロになれたらいいがになぁ(富山弁)」、「音大に入れたらいいがになぁ」、「日本と外国のコンクールに入賞できたらカッコいいのになぁ」、「ソロと室内楽のリサイタル開きたいな」、「音大の先生になれたらいいな」、「死ぬまでに1枚はレコード出したい」などという夢は浪人のころから持っていた。今それらが現実のものになっていることは、考えてみたら信じられないほど幸運なことだ。 しかし、その中に「指揮者になりたい」というのは入っていなかった。 だから今、棒を振っている自分が新鮮なのだ。
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