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雲井雅人の「小言ばっかり」

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2004/09/25(土)  マウスピース
サックスのマウスピースって、どういう進化をたどってきたのだろう。
「多分こうじゃないか」という仮説のようなものを立ててみた。

1. その昔、サックスという楽器が誕生したころ、マウスピースにジャズ用、クラシック用の区別はなかった。
2. 次第にいろいろな現場(軍楽隊やキャバレーなど)でサックスが活躍するようになり、スタイルや用途に合ったマウスピースが求められるようになる。しかし、まだ決定的な違いはない。
3. ジャズ・サックスの世界では、各奏者の個性の伸長にともない、ユニークな特長を持ったマウスピースが登場しはじめる。クラシック・サックスの世界では、澄んだ音が求められ、次第に生真面目な傾向のマウスピースが支配するようになる。
4. 現在に至り、クラシック用、ジャズ用はほぼ完全に分かれる。

クラシック・サックス奏者では、ミュール、デファイエ、ヘムケ以外に音の好きな奏者があまりいないのに、ジャズには数えきれないほど好きな奏者がいる。その中でも、キャノンボール・アダレイ、ヤン・ガルバレクが特に好きなのだが、僕の中ではこの二人の音は、ミュール、デファイエ、ヘムケに共通する艶っぽさや透徹感があると思っている。
逆に、多くのクラシック奏者の音は、僕にとって息苦しさや不自由さを感じさせる。
ジャズ・サックスの音の中に、ミュールとの共通性のようなものを見いだしている人は、案外多いのではないだろうか。

最近ジャズのマウスピース(オットーリンク)を吹く機会があって、その自由さにとても魅力を感じた。
僕が吹くと、その音はやっぱりクラシック的なのだった。それも、オールドな感じの。
でも、出そうと思えば、サブトーンや豪快なブロウなども可能なのだ。そこが面白い。

性急な結論のようだが、クラシックのマウスピースは、誰が吹いてもクラシックっぽい音しか出ないように作られているんじゃないかと思ったのだ。
音量は中庸、音程のツボは狭め、音色はクリアで変化は少なめというように。
その傾向が進みすぎていて、ちょっとつまんなくなっているんじゃないかなというのが、最近の僕の考えだ。

ここで突然、ジャック・イベール作曲「コンチェルティーノ・ダ・カメラ」の話。
ミュールの吹くイベールだけが「突出して魅力的」であり、その他の奏者の演奏は「ウマイ」にもかかわらず、たいして食指が動かないのは、なぜだろうと考える。
僕自身、20年以上もあの曲を演奏してきたが、自分の演奏にまったく納得はできない。仮にノーミスで、そこそこの音で吹けたとしても、「なんか違うなー」という感じだ。他の曲ではこういう違和感は少ない。
ミュールは、キャリアの始めにキャバレーでアルバイト的に演奏をしていた。そのときジャズ奏者から学ぶことは多かったと言っている。その度量の広さが、音色や解釈にも現れていると思う。
度量の広い(リラックスした)アンブシュア、度量の広い(自由度の高い)マウスピースだったのだろうかなどと愚考する。

我々の一世代、二世代ぐらい前のサックス吹きは、ほとんど全員がミュールの使徒のような心持ちでいたことは確かだ。
しかし僕には、ミュール的なセンスの良さが、今の世代にうまく受け継がれているとは思われない。


2004/09/23(木)  アルペジョーネ・ソナタ & 物語・冬の旅
7月に録音した、CD「アルペジョーネ・ソナタ & 物語・冬の旅」の編集がほぼ完了した。
あとは、ブックレットの文章を書けば僕の仕事は終わりだ。

シューベルト/trans.雲井雅人:アルペジョーネ・ソナタ
 アルト・サクソフォーン=雲井雅人
 ピアノ=伊藤康英

シューベルト/arr.伊藤康英、テキスト:林望:「物語・冬の旅」
 ナレーションと歌(テノール)=布施雅也
 アルト・サクソフォーン=雲井雅人
 ピアノ=伊藤康英
 演出=松本重孝(オペラ演出家)

「アルペジョーネ・ソナタ」における、サックスとピアノのインタープレイは、けっこう刺激的だと思う。
伊藤氏は、作曲家の書いた音をいったん自分のものにしてから、ピアノの音に置き換えている。
その様が以前からとても好きだった。僕のサックスもそれに触発されている。

「冬の旅」は乱暴に言ってしまえば、フラれた男の繰り言のようなお話なのだが、シューベルトはそれを青春時代にしか生まれ得ない切実な感情として、音楽で表現している。
功成り名遂げた声楽家が取り上げることの多いこの作品だが、本当は若い声で表現されるべきなのではないかと、つねづね思っていた。
リンボウ先生のテキストは、その未熟な男の傷ついた心を、美しい日本語で表してくれた。
ナレーションと歌を受け持った布施氏の演技は、「この作品のためにはこの人しかいない」と思わせるような出来で、僕は自分がそこで吹いていることも忘れて、ストーリーの中に引き込まれてしまう。

サックス関係者だけでなく、多くの音楽愛好家に聴いていただきたいと願う。


2004/09/08(水)  噴火合宿
先日、浅間山のふもとで「雲井門下合宿」というのをおこなった。
ついたち夜、そこで例の噴火を体験した。

今までに聞いたこともない恐ろしい爆発音、壁と天井が激しく振動する。
まず最初に考えたのは、すぐそばに落雷したのじゃないかということ。しかし、その後の長く続く振動がそれを打ち消した。
次に考えたのは、地震。でも、床は揺れていないのだ。これが噴火に伴う「空振」(爆発や火山の噴火によって起こる空気の振動)であると思い当たったのは、その振動がおさまったころだった。
そういえば、その日の昼過ぎ、何か焦げ臭いようなにおいがしていたのだった。

さっそく避難準備を開始する。荷物をまとめたり、避難経路を確認したり。テレビや地区の災害用放送に注意しつつ、着の身着のままで就寝した。
結局大事には至らず、翌日からの合宿の全日程も滞りなく遂行できた。

「大自然の脅威を感じた」などと言うと月並みな表現だが、一瞬「もうダメか」と思ったことは事実だ。
噴火というのは、地球が生きていることを我々に思い知らせてくれる。

こんどカルテットでCDの録音をするのだが、その中にアンドリュー・スティラー作曲「チェンバー・シンフォニー」という作品を収録する予定だ。
この作品は、火山にまつわる話がきっかけで書かれた。活動中の火山で実地研究をしていた火山学者が、噴火におそわれて遭難するという事件が、かつてあった。
その最後の無線通信の記録は「Vancouver, Vancouver, This is it !」というものだった。「バンクーバー、バンクーバー」と無線の基地局に呼びかけたあと、「これだー!」と言って、交信は断たれた。
作曲家はその学者魂にいたく感動して、曲を書き上げたのだった。

今回の噴火騒ぎで、このストーリーにリアリティーを感じることができるようになった。


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