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雲井雅人の「小言ばっかり」

( 2007/02 ← 2007/01 → 2006/12 )


2007/01/31(水)  上海報告
上海は、成田からたったの3時間。機内で打ち合わせなどしていたら、あっという間に着いてしまった。

一夜明けて上海2日目は、星雨児童康健院という自閉症児のための施設を訪ねた。
先生が中を詳しく案内してくださり、設備や教育方針などについて説明を受けた。
この施設は、日本政府のODAの一環として創設されたとのこと。
トランポリンやすべり台、バランスボールなどの遊具、言語指導室などを見学。
園児とそのお母さんたちと共に昼食をとった。
内装や設備の色使いは明るく、清潔な印象だった。
このあと、チャリティーショーの会場である街中の大きな映画館に移動した。
単なるアウトリーチだと思っていたら、大きな会場での歌あり踊りありの一大チャリティーショーに企画が変身していてタマゲタ。
何十万元というお金とアップライトピアノなどの寄付が施設のためにあつまり、会は大盛況のうちに終了した。施設内の部屋でササッとやるつもりだったのが、キツヌにつままれたような気分たが、役に立ったみたいだからよしとしよう。それにしても、短期間でこのイベントを成功に導いた園長さんたちのバイタリティは驚異だ。
夜は、クラブでライブをやったのだが、いまいち手応えはなし。
雲カルがここでやる必然性も感じられない。

三日目は、上海大劇院中ホールでのリサイタル。
昔住んでたアパートの隣人が、上海の日本人学校の教師をしていて、コンサート終了後、楽屋に会いに来てくれた。
なんという奇遇!
その彼の説明によれば、このコンサートは大成功だと言えるとのこと。
まず、ブーイングがない(ひどいときは食べている豆を投げるそうだ)。お客さんの私語が少ない。携帯電話を見るのを止めた。アンコールが真剣。
僕も、中国で公演した先達からだいたいの話は聞いていたので、彼にこう言われてホッとした。
拍手がだんだん熱を帯びてくるのを実感できた。
異国の地で演奏するというのは、肩書きや知名度など関係ない「ゼロスタート」なので、僕たちの演奏そのものを楽しんでもらえたという手応えが嬉しかった。

このコンサートでは、僕の弟子で尚美学園大に留学中の中国人青年・王磊君に司会と通訳をお願いした。
曲の紹介、メンバーの紹介とインタビュー、そして雲カルバックでの中国の名曲「二泉映月」のソロと、八面六臂の大活躍だった。
のみならず、中国と日本のカルチャー・ギャップや運営の仕切りの悪さなどの狭間に立つことになって、想像を絶するストレスに見舞われながらの本番であった。
それらのことを完璧にやりこなした彼は、終演後、楽屋で号泣していた。
僕ももらい泣きした。
この旅は、まさに参加者たちにとって、真の意味での「修学旅行」なのであった。

四日目はいろいろあった。
公開レッスンでは、昨年大阪で行われた室内楽コンクールで優勝した団体を指導した(ピアソラとデザンクロ)。
正直言って、そのうまさに驚いた。
もっと荒っぽいものを予想していたのだが、きたない音は出さずセンスが良く、しかも熱い演奏だった。
まとめようというのとはまったく違う、音楽の核心に殺到しようとする気概を感じた。
そして謙虚さ、頭の回転の早さ、指示に対する反応の良さなどなど。
クセっぽさはあるのだが、あまりそれを矯正しようとしない方がいいのかななどと思った。
将来がとても楽しみな団体だ。

街を歩くと、ここが中国であることを忘れてしまいそうになる。それほど賑やかで華やかな町並みなのだ。
デパートに入ると、日本の店より先を行っているような感じさえする。
アジア最先端の都市というのは誇張ではない。
しかし、一歩路地に入れば、そこには古い上海の生活が露出している。
そのギャップもまた面白い。

打ち上げは熱い男の出現により、非常に盛り上がった。
東京と上海を行き来する実業家でアマチュアサックス吹きかつ上海サックス研究会名誉会長の小林さんという方が、実に熱い!
なんと、過去に東京において僕のコンチェルトのバックで吹いたことがあるというから驚いた。
この人が上海のサックス・シーンのパトロンのような存在だ。
彼がいれば、上海のサックス界はこれからもますます隆盛となるだろう。

日本にいるときは、忙しさのためメンバー同士で深く語り合う機会は案外少ないのだが、ここではひさびさにそれができた。
旅先の時間というのは、いつもと流れ方が違う。


日本に着いたら、空気がきれいで景色がくっきり見えるなことと、建築物のデザインがおとなしいことなどに気付いた。
道路を車で走っていても、落ち着いた気分で乗っていられる。
排気ガスの臭いも上品だ。
クラクションの音を聞くこともない。
上海のタクシーの暴走ぶりときたら、それこそ筆舌に尽くしがたいほどで、日本人の感覚からすると「命懸け」で乗っていなくてはならないほどだ(しまいには慣れたけどね)。
クラクションは鳴らしまくる。
中国の車は、クラクションを鳴らすボタンから壊れるそうだ。
実際に交通事故は非常に多いそうだ。
現地駐在の日本人記者や会社員は、危険なので自分では車の運転はしないという。

「上海は固い岩盤の上にあるので、絶対地震がないのだ」と現地のガイドが断言していたが、本当に大丈夫なのか。
耐震強度などはどうなっているのか。
それにしても本当に数多くの高層ビルが乱立している。
上海の高層ビル群は、自己主張が強い。
屋上の部分にガンダムの頭みたいなのを乗っけているのや、エンパイアステートビル風、帽子、袴、球など、どこかひとひねりしないと気がすまない風がある。
それらが夜にはライトアップされて、さらに存在を主張する。
上海という街の勢いを象徴しているように思った。
中国語の強い口調やはっきりした態度というものとも通底するものがあると思った。


2007/01/29(月)  帰国しました
帰国しました。
雲カルが上海で行なったアウトリーチのことが、新華社通信で報道されました。

http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.sh.xinhuanet.com/2007-01/27/content_9154523.htm


2007/01/23(火)  上海ツアー
今日は、雲カル上海公演前の、日本での最後のリハ。

26日:星雨児童康健院(上海にある自閉症児の施設)でのアウトリーチ。夜、クラブでライブ。
27日:夜、上海大劇院でリサイタル。
28日:上海サックス研究会との交流会。四重奏のマスタークラスなど。

施設でのアウトリーチは、ちょっと行ってサッと演奏してパッと帰るつもりだったが、日本領事館や新聞社などもかんできて、また、子供たちも歌を歌ったりしてくれるようで、ややおおごとになっている。

これは、アルトの佐藤君が言い出したことで、「中国では自閉症の子を持つ親たちは、まだまだ社会の無理解に苦しんでいる。子供たちだけでなく、その親たちにもひとときの憩いを提供したい」というのが、その提案の理由だ。


2007/01/22(月)  レコ芸特選!
前回の日記で「レコ芸」のことを少し書きましたが、2月号の「レコード芸術」誌で、僕のCD「シンプル・ソングズ」が特選をいただきました。
とても嬉しく思っています。

昔、この雑誌を読みながら「オレも1枚でいいからレコード出したい」と思っていたころのことを思い出します。
1993年に1枚目のCDを出したとき、同じ雑誌のこの欄で紹介されて、それを本屋で立ち読みして感激したときのことを思い出します。
「雲井雅人は2007年に50歳を迎える中堅サクソフォーン奏者」とあらためて紹介する一文に、不思議な感銘を受けました。

また、このCDを聴いてくださった多くの方々からさまざまな感想が届いています。
それを読んで「このCDを作って良かった」との感を深めています。
皆さま、本当にありがとうございました!


2007/01/06(土)  バッハをやるわけ
CDを聴いてくださっている方から、
「ところで、雲井先生はバッハの曲をよく演奏されますが、何かきっかけなどあったのでしょうか?」

という質問を受けて、ちょっと考えた。
そういえば、この質問は受けたことがなかったような気がする。

あらためて考えてみると…
記憶にあるもっとも古いバッハとの意識的な出会いは、中学の音楽の教科書にあった「小フーガ ト短調」の楽譜だったかもしれない。
これをリコーダーやサックスで繰り返し吹いていた。
ただし、教科書の楽譜は数小節だけで、いつもそこまで吹いて止めていた。
全曲の楽譜を買うという発想がなかったのだ(中学生だからね)。

高校生のときは、ニコレの「パルティータ」、フルニエの「無伴奏チェロ組曲」、バルヒャの「オルガン作品集」のレコードを繰り返し聴いていた(持っているレコードの数が少なかったから明確に覚えている)。

その次は、浪人のとき音大受験のために練習した「2声のインベンション」だった。
これは、かなり一生懸命やった。
このころはまだ、サックスでバッハをやるとは毛頭思わなかった。

大学と大学院を通じて、フルートのための「パルティータ」をいつも内緒で練習していた。
なぜ内緒なのかと言えば、サックスで吹くなんてなんか正統的でないと思ったから、いくらやってもうまく吹けた気がしないから(今でも)。

日本に帰ってきて、留学やコンクールのレパートリーを吐き出してのち、さて自分で自分のレパートリーを形成しようとしたときに、「やりたい曲がない」ということで困惑した。
「自分は特にフランスものが好きなわけでも、現代音楽が得意なわけでもない」ということに気付いたのだった。
サックスという新参の楽器の事情とコンクールの課題曲の関係で、しかたなく形成されたレパートリーだったわけなのだ。

1993年に1枚目のCD「雲井雅人サクソフォーン・リサイタル」を出したときに、「レコ芸」に載った批評にこういうものがあった(スクラップブックに貼ってあるのだ)。

「(前略)雲井はこの楽器のクラシック音楽の奏者として、けっして崩れることのない、的確な表現を聴かせる。その音楽はあくまでも清潔であり、雲井が楽器そのものの魅力に溺れることなく厳しい一線を守っていることが、よく理解される。(中略)もっと「楽譜」から自由になる余地があるにもかかわらず、雲井は自分の立場を堅持しているように思われる。そのことがはたして「正解」であるのかどうか。ただ、雲井のためには、この楽器のための優れた作品が少ないことをまことに残念に思う。高く評価できる演奏であることを述べた上で、バッハやマーラーを聴いても、いまひとつしっくりとこないことも、また述べておかねばならないだろう。」

これを読んだとき、一瞬ムッとしたのち、ホントにそうだなーと思った。
この武田さんという方の慧眼に、今では深く感謝する。

このときのプログラムにバッハの「ヴィオラ・ダ・ガンバ ソナタ ト短調」を選んだのは、切実な気持ちからだった。
1枚目のCDに何を入れるかというのは、人生の一大事だ。
この曲を初めて公衆の面前で演奏したときは、やはり「正統的でない申し訳なさ」を心に抱えていた。
ブレスを取るのも管楽器としては、非現実的なほど難しかった記憶がある。
でも、やりたかった。
それでレコーディングまでしてしまった。

たとえば、クラリネット奏者はレパートリーに悩むことはあるのだろうか。
自分の好きな花を花園から摘むように、好きな曲を選べるのではないだろうか。
サックス吹きは、そういう訳にはいかないと思う。
絶えず自分の内面と向き合いつつ、少しぐらいは流行りの曲も視野に入れつつ、その妥協点を探っていかなくてはならない。

そういう意味で、僕にとってはバッハが存在してくれて良かったと思う。


2007/01/05(金)  初夢
朝比奈隆氏とソファーに隣り合わせに座りて、指揮談義をする。

オレ:「どうやって分割するとか考えながら振ってるとうまくいきませんよね(タメグチ)。だから僕は歌いながら振ってるんです」
朝比奈:「フンフン」(あんまり相手にしてもらえない)。

そこにヘムケ先生が現れたので(もしくは朝比奈氏がいつの間にかヘムケに変わっていたか)、そちらに移り話が弾む。
懐かしく嬉しい。

場面変わって、音大の学生たちの宴会に顔を出しているオレ。
不愉快かつ非常に危機感に満ちた心持ちで叫んでいる(声が嗄れるほど)。

「おまえたちは人質になっているってことに気付かないのか!
敵と楽しく酒なんか飲んでてどうするんだ!」

と言いながら、卓上の料理を床にぶちまけるなどの乱暴狼藉。
しかしながら、学生の反応は鈍い。
「なに言ってんだ、このオッサン。迷惑なヤツ」てな雰囲気。

いらつくオレは、あげくの果てに敵のような人物とつかみ合いの喧嘩。
こちらは卑怯な手を使うのだが、なかなか勝てぬ。
しまりのないファイトだ。

何という変な初夢であることか!

つらつら鑑みるに、

指揮談義の夢は、自分にとって指揮の仕事がプレッシャーになっているからだろう。
なぜ朝比奈さんが出てくるのかはわからないが(一度だけ同じステージを踏んだことがある)。
ヘムケ先生は、今年4月にノースウエスタンで会えるっていうことからだと思う。

「おまえたちは人質になっているってことに気付かないのか! 」
というのは、それを言っている自分自身がなにかにとらわれていることに、うすうす気付いていながら、どうしていいか分からないという状況を暗示しているのではないかと思われてきた。
自分が気になってることを、他人に振り向けることはよくあることだ。

「敵と楽しく酒なんか飲んでてどうするんだ!」
というのは、その状況に浸ってしまっているということか。

「卓上の料理を床にぶちまける」というのはなんだろう。
自分の不完全さの、目くらまし的な責任転嫁みたいな気もする。
被害者面というか。

「しまりのないファイト」というのは、この状況が今年も続くということか。

うーん…。






今年もよろしくお願いします。


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