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雲井雅人の「小言ばっかり」

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2004/03/25(木)  苔の匂い
春です。苔の匂いが気になる。

大学時代、僕の伴奏をしてくれていたピアニストが、「夜になると夜の匂いがするのよ。しいて言えば、それは湿った土の匂い…」と言っていたが、僕はそのときは「ふーん、オレにゃ分からねーや」と思っていた。ついでに、その彼女のことも最後までよく分かんなかったな。
だが、去年の春あたりから、なぜだか土の匂いや苔の匂いに気付くようになった。正確には、子供の頃に無意識に嗅いでいた匂いがよみがえったと言えばよいか。長いあいだそれを忘れていたのだ。

なぜ、今年は苔の匂いが気になるのか。フィットネス・クラブ通いで、体重が減り、血液中の各種成分の値が改善されることで五感が鋭くなり、嗅覚もよみがえったのかもしれない。あるいは、逆にアレルギー気味で化学物質過敏症っぽくなっているのかもしれない。しかし、この土や苔の匂いというのは、僕が気付こうが気付くまいが、毎年春が来るたびに世に満ちていたのだな、ただ、今まで僕が鈍くなっていただけなのだなと思った。

ここから先は、中国で《絲綢之路管弦樂作曲比賽》獲奬作品演奏會(シルクロード作曲コンクール受賞作品演奏会)に出演したときの話。

1991年5月、日本からの一行の中には、今は亡き作曲家の團伊玖磨氏もいらっしゃった。同じ演奏会で、團さんは自作のオーケストラ曲を指揮されたのだ。僕はそのとき、岩代太郎作曲「世界の一番遠い土地へ」を演奏した。オケの練習場からの帰りであったか、中国側が用意してくれた送迎の車の中で、僕は團さんと一度だけ隣り合わせになった。
きっかけは忘れてしまったが、何故かそのとき色覚異常の話になったのだった。偶然、團さんも僕も「赤緑色弱」という共通点があることが分かった。ひとしきり世間の色弱に対する偏見を憤り、「日常生活で困ることはほとんどない」という点で、意見の一致を見た。そしてそのあと忘れられない一言が。意気投合とはまさにこのことか、僕たちは声をそろえて言ったのだ。「椿の花の咲いているのだけは分かりにくいんです!」と。

椿は、しばしば日本画の題材として取り上げられている。鮮やかさの中にほんの少しの謙譲が混じる椿のあの紅は、日本画に用いられる岩絵の具の発色がふさわしい。しかし、そのつややかな葉むらの中に咲く現実の椿の花の赤さを、僕はその前を通りかかってもつい見落としてしまうことがあるのだ。色覚が正常な人たちには理解しがたいことであろう。あの見事な花を、なぜに見過ごすのかと。多分、実物よりも絵画の中の椿を、僕は楽しんでいるかもしれない。

色覚異常というのは、伴性劣性遺伝し主に男性に出現する。日本人の場合、男性の20人に1人、女性の500人に1人が程度の差こそあれ、赤緑色覚異常であるといわれている。
先年、日本で初めて色覚異常者の集会が開かれ、地下鉄路線図等に用いられるパステル調の微妙な色遣いに対する配慮を求める決議がなされたことが新聞で報じられた。その記事を読んで、心の中で快哉を叫んだ男が、20人に1人はいたということになる。

不思議なことに、見過ごしていた椿の花も、いったんそこにあることに気付くと、その美しさが目に入ってくるようになるのだ。このあたりの感じを分かってもらうのに、「差音」というハーモニーの現象のことを例に引きたい。
二つの音が同時に鳴るとき、そこに「差音」と呼ばれる第3の音が鳴る。純正調でハモったときに鳴る差音の玄妙さには、まさに心奪われるものがある。
僕にとっては、その神秘的な美しさを体験することが、アンサンブルの楽しさの源泉となっている。
誰かの音を聴くとき、一つの音を伸ばしただけでも、その音がハモる音かそうでないかはすぐに分かる。差音の出にくい、ハモりにくい音で吹いている人が近ごろ多いなーと感じる。主張しすぎる音はハーモニーしにくい。特にサックスという楽器にはその傾向が強いようだ。

土や苔の匂いというのは、毎年春が来るたび世に満ちていたのに、僕は長いあいだそれに気付かず過ごしてきた。
差音や純正調の美しさも、それに似ている。そのことに気付いていない人はけっこう多いと思うからだ。


2004/03/24(水)  存在理由
マズランカの「マウンテン・ロード」冒頭の和音は、Des Durの単純な長三和音である。
根音Desの上に第3音F、第5音As。このドミソがピタッと決まると、とたんに脳内に快感物質が放出される。

純正調の長3度の響きは、「甘さ」という味覚にたとえることができると思う。それも依存性、習慣性のある甘さだ。これに比べると完全5度というのは、脳の古い部分に働きかけてくるような安定的かつ決定的な響きだ。根音はその倍音の中に、長3度と完全5度を含んでいる(フルート奏者トレバー・ワイが著した「フルート教本」第4巻「音程」の中で、ピアノを用いた自然倍音列の実証の仕方が説明されている)。この物理現象の精妙さは、本当に不思議だ。このような整った響きを、なぜ人間は美しいと感じるのか。

美しいハーモニーは、脳内の何かのスイッチを押してしまうのだろう。無条件で「快」と感じてしまうのだ。このような倍音や差音がからみ合っている状態を作り出すことが、僕たちのアンサンブル結成の第一の理由であり、存続している意義だと思う。この価値観の一致が僕たちにとってとても大切だ。

今月発行された「ザ・サックス」誌の記事の中に、雲カルのインタビュー記事を載せていただいている。なぜ僕たちが「同じ奏法」にこだわるのか、それはこういうことだ。「かけ離れた奏法だと差音が出ない」の一言に尽きる。いくら音程が合っていても、音の傾向があまりにも違うと美しいハーモニーになりにくい。音の傾向さえ合っていれば、(他の管楽器や弦楽器のように)違う種類の楽器とでも美しくハモる。

差音というのは、「立体視遊び(平面に印刷された模様を、寄り目にしたり遠目にしたりして立体的に見えることを楽しむ)」のようなもので、聞える人と聞こえない人がいるのだろうか。この現象はもっと注目されて然るべきだと思うのだが。
僕自身のことを申し上げれば、「パイパーズ」のある号でフルート奏者ウィリアム・ベネットの音づくりについての記事を読むまで、差音の存在についてまったく知らなかった。ハーモニーの中に何となく「うなり」のような成分があることには気付いていたのだが、さほど重要なこととは考えていなかったのだ。もしその時、この素晴らしい現象に気付いていなかったらと思うとぞっとする。「パイパーズ」に感謝です。
この単純かつ本能的な悦楽の上に、さまざまなスタイル(地域により、時代により違う)が付け加わって、音楽作品が出来上がっているのではないかと、僕は思う。

演奏家の看板をあげてコンサート活動を展開するということは、食い物屋を経営していくことにたとえることもできる。おいしければお客さんにまた来てもらえるし、まずければ不人気になり店をたたむしかない。しかし、お客さんの舌はさまざまで、万人に喜んでもらうというのはなかなか難しい。みんなに好かれる味を追及しているつもりが、単なる迎合だったりするかもしれない。かと言って、人の行かない山奥で最高の蕎麦を打っていたって、食べてくれる人がいなきゃ商売にはならない。

ご批判はありがたくお受けして、今後の自分たちの糧としたい。でもどうしても譲れないところもある。問題点が見え始めたと同時に、自分たちの存在理由をより強く見つめている。


2004/03/12(金)  ありがとうございました
昨日浜離宮朝日ホールに来てくださった皆さま、あたたかい拍手、熱い拍手、本当にありがとうございました。
皆さまの拍手によって、自分の心が次第に満たされてゆくのを感じました。

奏者にとっては、ちょっとヘビーなプログラムだったと思います。
意外に思われるかもしれませんが、僕にとっていちばんキツかったのは、1曲目の「東回りの風」でした。中でも特に「グリーンスリーブス」です。サックスという楽器がもっと楽にピアニッシモが出てくれたらなーと恨めしく思いながら、窒息寸前で吹いていました。大きな音は、サックスにとって「巡航速度」ですから、それほど大変でもないのです。

しかし、その他の曲も大きな感情を扱っているので、かなり消耗させられました。こんなプログラムは、そう頻繁にはできないなと思います。
浜離宮朝日ホールは本当に素晴らしい演奏会場であると感じました。ホールの響きという触媒によって、化学反応が進みすぎてしまったのも、消耗の原因の一つでしょう。「消耗」なんて言っていますが、僕たちの中からたくさんのものが引き出されたということですので、実は良いことだと思っています。

むかし、アブドーラ・ザ・ブッチャーというプロレスラーがいたのですが、40代以上の方なら覚えていらっしゃるかもしれません。太った黒いダルマがステテコはいたような強烈なキャラの悪役レスラーでした。狂人のような振る舞いで、次々とダーティーなファイトを繰り出すので、子供だった僕は恐怖を感じ、また心底いきどおっていました。彼の額にはいく筋もの傷跡があり、そこを殴られると大出血して顔面血まみれの凄惨な有り様となります。その血を自分でベロッとなめたりして、おおコワ!

でも大人になってから分かったことですが、あの傷跡は殴られたときすぐ切れやすいように、わざと完治させないようにしていたというのです。それを知って「なぁーんだ、インチキか」と思っていた時期もありますが、今は違います。「そこまでして試合を盛り上げていたのか。ブッチャーえらいっ!」という思いです。「出血」というのはかなり非日常ですからね。

演奏家や俳優など、人前で何かを表現する仕事に携わる人間は、「ブッチャーの額の傷」と同じようなものをどこかに持っているのかもしれません。この傷が完治してしまうことは、表現が凡庸に堕してしまうことだと考えたりします。普段の生活で血を流すのなんてイヤですが、風が吹いたらヒリヒリするぐらいの心の感度は保っておきたいと願うのです。


とここまで書いて、散歩に行ってきた。
帰ってからちょっと気になって,ブッチャーのことを調べてみたら、なんと70歳近い年齢でまだ現役を続けているらしいではないか!
すごいぞブッチャー! 頑張れブッチャー!



2004/03/05(金)  練習を一日休むと
「練習を一日休むと自分が気付く。二日休むとパートナーが気付く。三日休むと客が気付く」というのは、あるバレリーナが言っていた言葉だ。
「練習を一日休むと自分が気付く。三日休むとメンバーが気付く。一週間休むと客が気付く」は誰だったかな、たしか高名なギタリスト。
似たような言い回しは、多分どこの世界にもゴロゴロあるのだろう。

「一日休むと自分が気付く」はその通り。再開するとき、体の各部分の潤滑油が切れたような感じがする。
「三日休むとメンバーが気付く」も本当だ。リハの時、守勢に回るというか言い訳っぽくなっている自分に気付くことになる。
「一週間休むと客が気付く」って当たり前で、そんなことしたら怖くてステージに立てる訳がない。

重々わかってはいるんだが、この言葉があんまり頭の上に重くのしかかってくると、楽器のケースを開けるのが憂うつになる。
それで、気分転換と称してぱーっと呑んじゃったりなんかして、翌日は案の定、調子が落ちている。本番が近いのに何をしとるんじゃ、と自分でツッコミを入れたりしながら、渋々さらっているうちに調子が出てきて楽しくなり、「もしかしてオレ、上手くなったかも」などと悦に入り、だったら毎日そうしろよと思うのだが、また気分転換がしたくなる。これの繰り返しなんですな。

初めての曲を譜読みしながら仲間と合わせるのは、アンサンブルのいちばん楽しいときかもしれない。この時点では、曲はまだ、どんな大人になるか分からない未分明な赤ん坊のようなものだ。
そして練習を重ね、音たちがあるべき場所で生き生きと自由に振る舞い始めると、演奏者はその作品に奉仕する存在へと変化する。その頃には、作品の高いエネルギーの場に立ちあうことで、演奏者には精神的にも肉体的にも大きな負担が生まれる。

ここを逃げてちゃいけないわけだ! と自分に言い聞かせている今日この頃です。


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