[トップページ] [他の月を見る]


雲井雅人の「小言ばっかり」

( 2004/12 ← 2004/11 → 2004/10 )


2004/11/24(水)  フェルリング
「フェルリング48の練習曲」の話の続きです。
いろいろ探してみたら、原典版らしきものが売ってるのを発見した。
また、この練習曲集の2番パートというのも売っていて、購入することにした。

International Double Reed Society(世界ダブルリード協会)のサイトに、とても有益な研究を発見した。
●作曲家フェルリングのプロフィール
●この練習曲集の成り立ちについて
●各曲をマーチ、ワルツ、ポルカ、ポロネーズ、チャルダッシュ、ソナタの緩徐楽章、宗教的作品、ロマンス、ベルカント・アリア、トッカータなどに分類した上で、解説を加える
●ピアノ伴奏パート
などなど、僕の知りたいことがすべて載っていた。

著したのは、Charles-David Lehrerという人。
サンプルを見ることができる。
協会の会員になると、全曲についての研究が見られるので、僕はシングルリード奏者だけど、入会した。
ここで知ったことを、レッスンに生かして行ければいいなと思う。
20年も教えていると、生徒に対して、自分が同じことしか言わなくなっちゃっているのがウンザリなんだよね。

第29番のターンに関してだけど、ここでは記号によらず、音符で書き表してある。そして、例の符頭についているターンのところは、ちゃんと上方補助音から始まっているのだった。わが意を得たりとはこのことぞ!

http://www.idrs.org/ferling/examples.html


2004/11/19(金)  ターンについて(続き)
今売られているLeduc版の「フェルリング48の練習曲」を、もう一度良く調べてみたら、ターンの記号は、ほぼすべて転回型になっていた。
どうもこれはおかしいと、僕は思う。Leducのような世界的な出版社でこのようなミスは起こるのか、もしかしたら元々の原典版がそうなのでそれに従ったのか。疑問だ。

僕が30年前に買った版では、すべて標準型のターンである。
Billaudotから出ている、ピエール・ピエルロ編集の「フェルリング48の練習曲」でも、すべて標準型である。
こちらは、各曲の速度表示も妥当である。奇数番号(遅いほう)がすべて「8分音符=72」ということはなく、曲想によってさまざまな速さが指定されている。偶数番号(速いほう)も、ミュール版よりいくぶん遅めである。
ミュールが奇数番号(遅いほう)を「8分音符=72」にしたのは、8分音符の中にヴィブラートの波を4つ入れる練習のためだったことが、彼の伝記に記してある(のちに彼は『76にしておけば良かったと思う』と述べている)。
サックスのヴィブラートというものが、まだ定着していなかったころの話だ。

ピエルロ版には、〈pour Hautbois ou Saxophone〉とある。
こっちを使っても良いかな、と思いはじめている。

それと、これらの版の元になった「原典版」をさがして、研究してみなくてはいけないと思うようになった。
考えてみたら、クローゼ、ブレーマン、フェルリングなど、いつもお世話になっているエチュードのことを何も知らない。

イベールのコンチェルティーノやグラズノフのコンチェルトなどの自筆譜を見られないものかな。ケックランのエチュードも、ロンデックスの校訂がうるさすぎて、どこまでがオリジナルなのか分かりにくい。
18、19世紀の音楽の「原典版」の研究は盛んに行われている。「対岸の火事」みたいな気持ちで眺めていたけど、サックスだってその気になれば、自筆譜ぐらい見ることは可能だろう。

サックスのための重要な作品が多く生まれた20世紀のはじめごろ、作曲家はどのようなサックスの音を聞いていたのかということに、以前から非常に興味があった。
サックスの「古楽器」というわけだが、進みすぎた(と言うとやや語弊があるが)現代の楽器でイベールを必死になって吹いても、正直言ってどうもしっくりこない気がしている。
いつも「19世紀半ばに発明された新しい楽器」と紹介されることの多いサクソフォーンという楽器。たしかに新参者には違いないが、それなりの歴史がいつの間にか出来上がっている。
奏者は、その歴史の中の数十年だけを現役として生きるわけだ。ある程度長いスパンでものを見ていないと、タコ壺におちいった状態で独りよがりな演奏になるおそれがあるかもしれない。


2004/11/14(日)  11/30の王子ホールコンサート
秋の昼下がりの銀座で気軽に聴けるコンサートには、どんなプログラムがいいのかなーと考え、今回は雲カルが普段いろんなところでやってきた曲たちの中から、古今東西の「踊り」にかかわる作品を集めてみました。
そうしたら、イギリス、キューバ、ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、アメリカ、フランス、ギリシャ、日本、スペインなど世界各国の曲が集まりました。
さまざまなスタイルの「ダンサブル」な音楽をお聴きいただきたいと思います。練習しててもすごく楽しいです、ホント。
1時間ちょっと、休憩なしでお話しながらのコンサートです。
終演後、ささやかなお茶会があります。

2004年11月30日(火)13:30開演
全席指定 2,500円
http://www.ojihall.com/ticket/ticket.html
*******************************************************
● 妖精の女王:ヘンリー・パーセル/arr. Dapper
  プレリュード
  ホーンパイプ
  エアー

●南アメリカ組曲:リノ・フロレンツォ
  チャチャチャ
  サンバ

●タンゴの歴史:アストル・ピアソラ/arr. Voirpy
  ナイトクラブ 1960

● “三文オペラ”の音楽:クルト・ワイル/arr. Harle
  タンゴ

●気まぐれな組曲:ジェローム・ノレ
  ジャズ・ワルツ
  チャールストン

●プリーズ・プリーズ・ミー:レノン & マッカートニー/arr. 高山直也

●ヘレニズム組曲:ペドロ・イトゥラルデ
  カラマティアーノス 〜 ファンキー 〜 ワルツ 〜 クレタ

●富山県民謡/arr. 秋透
  こきりこ節
  麦屋節

●カルメン幻想曲:ジョルジュ・ビゼー/arr. 伊藤康英


2004/11/13(土)  ターンについて
ターン turn[英] 装飾音の一種。回音ともいう。主要音と、その上下に隣接する補助音が交互に、順次的に現れるもの。上方補助音から始まる4音の音型(主要音がドの場合、レ-ド-シ-ド)が基本であり、その転回型(シ-ド-レ-ド)等も用いられるが頻度は少ない。(平凡社・音楽大辞典より)

サックス奏者必修の「フェルリング48の練習曲」や、「ブレーマン20の旋律的練習曲」の第4番などに現れる『ターン』の記号について、いささか混乱があるようので指摘しておきたい。

上に引用したとおり、ターンは上方補助音から始まるのが原則である。古い時代の作品では、主要音から始まることもありうるが、現在では上の音から始まることが定着している(このあたり、一部の楽典の本でも混乱しているようだ)。
音符の頭にターンの記号がついていれば、(主要音がドの場合)レ-ド-シ-ド。
音符と音符の間にターンの記号がついていれば、ド-レ-ド-シ-ド。

何でもかんでも主要音から始めて、「ド-レ-ド-シ-ド」と吹く(あるいは教える)人が多く見受けられる。音符の頭についているときと、間についているときでは開始音が違うのだ。

また驚くべきことに、最近売られている「フェルリング48の練習曲(LEDUC版)」では、第1番の9、11小節め、第21番の終わりから2小節めのターンの記号が、基本形の「裏返しのSの字を倒したもの」でなく、転回型である「ただのSの字を倒したもの」になっている版がある。
LEDUC社がいったいどういうつもりでそのような変更を加えたのかは分からない。転回型のターンなんて、バロック音楽でも希なのにね。ただ、和声的には転回型でも違和感がないので、シ-ド-レ-ドという動きでもおかしくはない。

「フェルリング48の練習曲」は世界中のサックス学生が必ず買い求めるので、かなりの版を重ねていると思われる。(仮に、いまだにLEDUC社が活版印刷を行なっているとして)音符の活字スタンプがすり減ってかすれたところを修正するときに、職工が誤って転回型ターンのスタンプを組み込んだのではないかなと、僕は思っている(しかし、はたして植字工なんて職業がフランスにまだ存在するんだろうか。あやしいものだ。BILLAUDOTの最近の楽譜は明らかにコンピューター浄書であると思われるが、LEDUCはどうだろう)。しかしまあ、別にそれならそうで、きちんと転回型のターンで優雅に音を飾りたいものだ。

ついでに言うと、「フェルリング48の練習曲」第3番の3小節めのトリルは、ただそのままやっても無意味で非音楽的なだけである。付点音符の後にあるターンのやり方を応用しなくては、成り立たない。

ターンは音の数が少ないトリルのような性質を持っており、トリルの末尾にあたるものと考えることもできる。
現代では、ターンのような装飾音は記号によらずにきっちりと記譜してしまうことがほとんどだ。その分、即興性はなくなった。


2004/11/07(日)  ロストロポーヴィチ
このあいだまでの僕は、本番やらレコーディングがたてこんでいて(と言ったって、そんな大したスケジュールじゃないけどね)、異常なテンションの中で生きていた。
そんなときのプレーヤーにレッスンを受けるってのは、生徒にとってはエライ災難だ。

本番が連続しているときのモードというのは、言ってみれば心の中にある「地獄の釜」のふたを閉めるヒマがないようなものだ。表面的じゃない表現をするために、感覚が研ぎ澄まされていて、ちょっと非日常的な心理状態になっている。自分の表現に対する否定と肯定がせめぎ合っている状態でもある。どろどろに溶けた熱いものが、すぐそこまで来ている感じ。

いきおい、生徒に対しては辛辣になってしまう。どんな演奏も気に入らない、というと極端だが、フルパワー(大きな音でという意味ではない)で表現してくれないと物足りなく感じる。
逆に、何年か前までみたいに、何ヶ月も演奏の仕事がまったくなかったりすると、レッスンの時、生徒の演奏の些細なキズは気にならなくなる。和気あいあい。

こんな身勝手なことじゃ、いけないね。

そんなとき思うのは、チェリストのロストロポーヴィチのこと。
10代のころ、初めて彼の弾くドヴォルザークの協奏曲のレコードを聴いたときは、その堂々たる表現のとりこになった。「雄渾」という言葉は、このような演奏のためにあるのだと思った。

年を経て、僕が彼の指揮するオーケストラのメンバーの一員となって幾度か共に演奏(プロコフィエフやショスタコーヴィチの作品)しても、その印象は変わらなかった。ドヴォルザークのレコードを聴いたときと同じ、「地獄の釜」のふたを開けっぱなして、そこからエネルギーを取り出しているような彼の指揮ぶりだった。エネルギッシュで包容力があり、粘り強い棒で結局オーケストラに巨大な音楽をさせていた気がする。

「地獄の釜」のふたが開いているからといって、ロストロポーヴィチがひどく専制的だったり恣意的だったりしたことはない。この人は高い「人格」とでも言うべきもので、内なる地獄の炎をコントロールしているのだろうという印象を、彼に会うといつでも受ける。
言い換えると、「何かおそろしいもの」を心に秘めていることは強く感じるのだが、圧倒的に人間味にあふれ、かつ確固たる倫理観を持っているように感じるのだ。美化しすぎてるかな?

彼に比べたら、僕のは「地獄の釜」なんて立派なものじゃなくて、「七輪の火」ぐらいなもんだろう。
そんなもんのせいで、生徒につらく当たったりしちゃいけねーよな。
七輪の火も、それなりに熱いんだけどさ。


2004/11/01(月)  脱稿!
どうにかこうにか原稿を書き上げて、やっと一息つける。
やっと次のことが考えられる。
大した文章でもないのに、えらい時間がかかってしまった。

予定では今月の末に、シューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」と伊藤康英編曲の「物語・冬の旅」のCDが出ます。
このブックレット用の原稿がなかなか書けなくて、苦労しました。

たくさんの人に聴いて欲しいと願う。


( 2004/12 ← 2004/11 → 2004/10 )


[ 管理者:管理者 ]


- CGI-Island -

Thanks to CGI-StaTion & 手作りCandy