[トップページ] [他の月を見る]


雲井雅人の「小言ばっかり」

( 2005/02 ← 2005/01 → 2004/12 )


2005/01/30(日)  オムニバスCD
先日、青葉台のフィリア・ホールで、オムニバスCDのためのレコーディングがありました。
十数人の管楽器奏者のソロ(フルートからチューバまで)を1枚のCDに収めるという企画です。

「演奏をなりわいとする私も、その流れの中にどっぷりとつかり生活の糧を得ているのだ。」

などと、昨日記したばかりですが、まさにその仕事です。

5分程度の曲でしたが、なんと!正真正銘の一発オーケーで、ものすごい爽快感を味わいました。録りはじめてからモニタールームで演奏のチェックが終わるまで、たったの十数分。そのときの気分の良さは今も続いているほどです。

僕は、バッハの「イタリア協奏曲」第2楽章を、テナー・サックスとピアノでいれました。栃尾氏編曲のサックス四重奏版を何度か演奏したときに、「んー、これはソロでも使える!」と感じ、機会を狙っていました。

実は僕は、サックスの中ではテナーが一番好きで、自分の心理的な声域にぴったり合うような気がしているのです。単純に、吹いていて楽しい。
モニタールームでプレイバックを聴いて、自分では「この音で良い」と思ったのですが、聴く人はどう思うでしょう。反響が楽しみでもあり不安でもあります。

4月に出る予定らしいです(詳しいことは分からぬ)。


2005/01/29(土)  録音以前
作家の林望氏がファンのために刊行している機関誌に、『菊籬高志堂四時報』というものがあります。
昨年秋発行の第24号に載せていただいた私の文章を、以下に転載いたします。
----------------------------------

《録音以前》

 「音を記録したり再生したりすることができる」という概念がまったくなかった時代の演奏ってどのようなものだったのだろう。最近、このことが気になって仕方がない。

 のっけから時代がかった名前を出して恐縮だが、指揮者のウィルヘルム・フルトヴェングラーが、同業者であるブルーノ・ワルターについて、こう漏らしたという話が伝わっている。20世紀前半のころの話である。

 「ワルター君は最近、録音というものを意識して、演奏が堕落しているのではないか」。

 この話の出典がどこであったか、もう分からなくなってしまった。真偽のほども定かでない。また、私がフルトヴェングラーやワルターの演奏に特に魅力を感じているというわけでもない。では、この話のどこが私の興味を引くのかというと、かつて「録音」というものをまったく意識せずに、人々が演奏を行なっていた時代があったことを思い起こさせてくれるからだ。「演奏はその場限りで消えてしまうのが当たり前」の時代が、長く長く存在していたのだ。

 この二人の指揮者としてのキャリアは、ほぼ20世紀の初頭から中盤にかけてである。キャリアの半ばから、高度な「レコーディング技術」が出現し、本格的なSPレコード時代が始まったことになる。そのため彼らは、演奏という行為に対する価値観の変更を迫られたことだろう。

 フルトヴェングラーの演奏は、本番での即興性を重んじ、大胆な指揮ぶりでオーケストラから信じられないような素晴らしい音楽を引き出したという。一方で、ときにはオーケストラが彼の棒について行けなくてガタガタになったりしたこともあるという。

 レコーディングに積極的だったワルターは、リハーサルを重ねて楽員に解釈を徹底させ、キズのない整った演奏スタイルを築いた。レコード産業が音楽ビジネスの中で大きな位置を占めていくにつれ、ワルターのような行き方が主流になっていったのは当然のことかもしれない。

 現在ではレコードやCDがあまりにも深く浸透していて、同じ演奏を繰り返し聴くことは不思議でも何でもなくなっている。演奏をなりわいとする私も、その流れの中にどっぷりとつかり生活の糧を得ているのだ。

 しかし、フルトヴェングラーの言葉を知ってからは、必ずしも現在の状態が、音楽的に「当たり前」というわけではないことに、徐々に気付きはじめている。

 われわれ演奏家と過去の作曲家をつなぐのは、唯一「楽譜」だけである。楽譜というものは、作曲家の心の動きを書き留めた不完全なメモのようなものだと言っても良いと思う。印刷された楽譜は、その作曲家の決定稿であるとはいえ、演奏家にとっては手がかりにしか過ぎない。演奏していて、その「メモ」に血が通う瞬間を実感できるときは本当に楽しい。今この場で音楽が生み出されているという新鮮さを感じる。そんなときだ、録音というものを意識せずに人々が音楽を楽しんでいた時代に思いをはせるのは。

 今秋、私は『サクソフォーン・ミーツ・シューベルト 雲井雅人、あふれる歌へのオマージュ』と題して、シューベルトの作品を集めたCDを出すことになった(アルケミスタ・レコーズ ALQ-0008)。ここには、リンボウ先生のテキストと伊藤康英氏の編曲による、サクソフォーン、ピアノとナレーションのための「物語・冬の旅」という作品が含まれている。

 その曲の中に、辻音楽師の老人が街角で「ひび割れたような音」でライエル(ハーディーガーディーとも呼ばれる弦楽器)を奏でる場面がある。音楽を聴くためには、実演に触れるしかなかった時代、街角でライエルを奏でる辻音楽師が、人々にとってどのような存在であったかを想像するのは難しくなってきている。

 昔々、文字というものがまだなかった時代、物語は口伝えでしか語られることはなかった。そのような時代を想像することは、いまやほどんど不可能に近いのと同じように。


2005/01/28(金)  シューベルトのCD,今週あたりから店頭に出ています
  生け花の名人のすることを見ていると、
  ときとして何の変哲もない野の花をつまみ上げて、
  床の間に一つの世界を作りだすのだ。

  その手際は、
  シューベルトが、
  移ろい行く人の心の有り様に、
  歌という形を与えてこの世に繋ぎ止め、
  我々に残してくれたことに似ている。


■アルペジョーネ、ライエル、そしてサクソフォーン
 このアルバムの中に登場するいくつかの楽器のことについて、はじめにお話しておきたいと思う。
 「アルペジョーネ・ソナタ」の題名になっている「アルペジョーネ」という楽器は、今ではまったく廃れてしまった擦弦楽器(弦を弓で擦って発音する楽器)である。ギター・チェロとも呼ばれ、19世紀のはじめにウィーンで発明されたが、登場から10年足らずで姿を消してしまったらしい。ギター型の胴とフレット付きの指板を持ち、チェロのように弓で弾く折衷的な楽器である。その音色は、「障り」の成分の多い民族楽器的な傾向を持つ。「アルペジョーネ・ソナタ」が、いくぶんハンガリー風な特長を持つのも、シューベルトがこの音色に触発されてのことだったかもしれないと私は感じている。

 「冬の旅」の中に幾度か現れる「辻音楽師」が奏でるのが、「ライエル」という楽器である、この楽器は、中世からの長い歴史を持つ擦弦楽器だが、現在ではほぼ廃れてしまった。ライヤー、ハーディー・ガーディーなどとも呼ばれる。ヨーロッパの放浪音楽家たちによって奏されることが多かったため、この楽器にはややネガティブなイメージがつきまとう(グローブ音楽辞典のハーディー・ガーディーの項の挿画などは、かなりぐっと来るものがある)。リュート型の胴を持ち、弓で弾くかわりに、松やにを塗った木の円盤をハンドルでぐるぐる回し、それでもって弦を擦って演奏する。その音色は、バグパイプの弦楽器版といったところであろうか。

 そして、ここで私の奏しているのが「サクソフォーン」である。この楽器は、真鍮という金属でできているが、これでも木管楽器の仲間に属する。19世紀の半ば、ベルギーの楽器製作者アドルフ・サックスによって、木管と金管の中間的音色を出すことを目的として発明されたという出自を持つ、やや折衷的な楽器である。同様に19世紀ごろ発明された楽器であるヘッケルフォーン(一種のバリトン・オーボエ)やサリュソフォーン(ダブルリードの真鍮製木管楽器)などいった管楽器がその後流行らなかったのに比べ、幸いなことに、サクソフォーンはその後も命脈を保ち現在まで発展を続けている。吹奏楽の中で木管と金管の響きを融和させる役割を果たすほか、ジャズの花形楽器として知られている。最近ではクラシック音楽界でも活躍するようになってきており、全国のほとんどの音楽大学にサクソフォーン科があるほどである。

■サクソフォーン in クラシック
 しかし、この楽器は新参者であるがために、レパートリーのほとんどが20世紀以降の近・現代の音楽に限られる(ヴァンサン・ダンディの作品がほぼ最古の部類に属する)。古典派以前の作品は皆無。ロマン派的な作品は、かろうじてアレクサンドル・グラズノフのものが2曲あるのみという、まことにさびしい状況なのだ。そのためクラシックのサクソフォーン奏者たちはいつも「慢性古典音楽欠乏症」に悩まされている。自分の愛するバッハやシューベルトなどの作曲家の作品を、みずからが専門とする楽器のレパートリーにできないというのは、悲しく情けないことである。このあたりの気持ちは、広汎なレパートリーを擁する声楽家およびヴァイオリニストやピアニストには理解しえないであろうと思われる。彼らと話していると、まるで、子供の頃ルールを知らないために、遊びの輪から一人仲間外れになっていたときのような気分に陥ったりすることがあるのだ。

 10年前、私はシューベルトの「アルペジョーネ・ソナタ」をおずおずと取り上げ、リサイタルで演奏した(ピアニストは伊藤康英)。そしてつくづく思ったことは、バロックだのロマン派だの印象派だのというスタイルの違いというのは、時代的に古いとか新しいとかいうことではなくて、自分の中のどの場所がシューベルトに共鳴したりバッハに共鳴したりするのか、その場所の違いのことなのだなということだった。そういう意味では、私にとってシューベルトは現代の音楽と同じくらい新しいということに気付いたのだった。シューベルトによってしかタッチしてもらえない場所が心の中にあるのだ。そのとき以来、この作品は私にとって大切なレパートリーとなった。
 綺羅星のごときチェロ奏者、ヴィオラ奏者たちがこぞってCDに入れている「アルペジョーネ・ソナタ」。そこに、サクソフォーンによる私の演奏をそっと付け加えたい。ピアニスト伊藤康英の弾くシューベルトは、あたかも伊藤自身がその場で創作しているような気合いに満ち満ちている。それに触発されて、私も我知らずサクソフォーンという楽器の制約を越えた表現をさせられているような気がする。前述したアルペジョーネの民族楽器的な音色とサクソフォーンの世俗的な性格が、どこか遠くでつながっているような気さえするのだった。
 アルペジョーネという楽器は存外音域が広いので、アルト・サクソフォーン用にアレンジするにあたって、フレーズごと1オクターブ移動したりしたところがある。またピチカートの部分はほとんどピアノにまかせた。

■「物語・冬の旅」の成立
 シューベルトの音楽、中でも歌曲を聴くとき、いたるところに自分にも「思い当たる節」があることに気付かされる。私たちの心の折々の思いを、歌が代弁してくれているように感じるのだ。文字通り「こんな時にこんなメロディー(節)があったらなぁ」というのを、あらかじめ何百通りも準備してくれていたようなと言えばよいだろうか。その表現ががあまりに深く自然なので、シューベルトを通して天上からもたらされたギフトではないかと思うことすらある。

原詩:ヴィルヘルム・ミュラー
原曲:フランツ・シューベルト
テキスト:林望
編曲:伊藤康英

というこの上なく贅沢な組み合わせによる「物語・冬の旅」。このような作品を私が委嘱しようと考えたきっかけは、以下のようなものである。
 あるとき、林望(以下、リンボウ先生)著「落第のスヽメ」(文春文庫)の【誰かは切らん恋の道】の章を読んでいたら、次のような文章に行き当たった。

  「かのシューベルトの『冬の旅』などは、まったく『あられもない』とも評すべき失恋の歌、それも振られた男の未練の歌である」

 そうだ、この歌はそうなのだった! そのめめしさは、それこそ誰にでも「思い当たる節」があるのではないだろうか。私も振られた男の心情を理解するのに、人後に落ちるものではない。
 この文章にけしかけられるように、私の中に次のような大それた考えがわき上がった。そしてこのことを、作曲家伊藤康英に持ちかけたのだった。また、テキストをお願いできるのはリンボウ先生を措いてほかにないということで、お引き受けいただいた。
 
1. 私は「冬の旅」という歌曲集を深く愛するが、みずから歌うことはできないので、自分の楽器サックスで吹いてみたい。
2. 「近寄りがたい崇高な作品」的な扱いではなく、少し違った切り口でアプローチしてみたい。
3. 訳詞の単なる朗読でない何かと共に演奏をすることで、今までになかった新しい世界を舞台上に作りたい。

 ミュラーの原詩は、リンボウ先生の言葉どおり、振られた男の『あられもない』姿を描いているのであるが、シューベルトは、それを青春時代にしか生まれ得ない切実な感情として音楽作品に昇華させている。
 リンボウ先生のテキストは、その未熟な男の傷ついた心を、現代の日本語に鮮やかに置き換えている。そのおかげで、この主人公の青年は非常にリアリティーのある存在となった。
 伊藤氏は、以前より歌曲集「冬の旅」のピアノ伴奏をしばしば担当し、この作品を自家薬籠中のものとしている。原曲を再構築して「現在空間」と「回想」を行きつ戻りつする青年の心を、一篇のドラマにまとめ上げた。
 「冬の旅」は、功成り名遂げた声楽家に取り上げられることの多い作品だが、本当は若い声で表現されるべきなのではないかとつねづね思っていた。その点で、ナレーションと歌を受け持った布施雅也氏の演技は「この新しい作品のためにはこの人しかいない」と思わせるもので、失恋した男の等身大の姿を描き出した。
 歌・サックス・ピアノだけで演じられる「オペラ」ともいえるこの「物語・冬の旅」によって、私はサックス吹きであるにもかかわらず、自分がシューベルトの世界に深く関わっているという嬉しさを味わっている。

■演出について
 松本重孝氏の演出についてもひとこと触れたい。氏の方法は「正しく感じること」、この一語に尽きる。演奏者に対して「このように演じなさい」ということは一切なく、ただひたすら「正しく感じること」によって導き出される表情が、演奏者自身の内側から生まれることを促すというものだった。その結果、我々3名の演奏者は、信ずるに足る表現にたどり着くことができたと思う。


2005/01/17(月)  感性もツルン
以前からうすうす感じていたことで、近ごろになって自分の心の中で徐々に大きくなってきた考えがある。
うまく言えないので、バラバラにメモしてみようと思う。


自分の狭量を示すようで、言うのがためらわれるが、僕が好きなクラシックのサックス奏者は、極論するとミュール、デファイエ、ヘムケの3人だけということになるかも。
その後たくさんの名手たちが登場しているが、彼らの演奏は「勉強」にはなっても、僕を「夢中」にさせてはくれない(と言いつつ実はイギリスに目をつけている奏者がいる。ジェラルド・マックリスタルというその男の演奏をナマで聴いてみたいのだ)。

一方、好きなジャズサックス奏者はたくさんいる(そんなに詳しいわけじゃないけど)。ヤン・ガルバレク、キャノンボール・アダレイ、ポール・デズモンド、スタン・ゲッツ、ジョニー・ホッジスが僕のベスト5。他にもたくさんいる。というか、要するに音がきれいで、「パーン」と楽器から放たれているプレーヤーはほとんどみんな好き。同じCDを何回聴いても、そのたびにいい気分にさせてくれる。

ジャズ奏者の友人に指摘されてなるほどと思ったのだが、自分も含めてクラシックの奏者は、新しいモデルが出たら、それっとばかりに一斉に楽器を買い替える傾向があるように思う。新しいものの方が良いと頭から思い込んでいるフシがあるようだ。それとも、楽器屋さんの広告にとても敏感なのか(おっと、これは語弊があるかしら)。
ジャズ奏者は逆に、自分の好きな音にこだわって、古いタイプの楽器やマウスピースを探し出して使っている人が多い。いわゆるヴィンテージ物というやつですね。古けりゃいいってもんじゃないだろうけど、真剣に追求してるわけです、彼らは。

以前、知人に借りて吹かせてもらったアルト用の古い「ショートシャンク」のセルマー・マウスピースの音がずーっと忘れられなくて、最近ようやく何本か入手できたのを試してみている。これが吹いていて楽しいのなんのって! あー、練習がこんなに楽しいなんて、いつごろ以来だろう。
テナーは、1年ほど前から「オットーリンク7☆ハードラバー」というのを使用している。誰も気付きませんね、僕がジャズモデルを使っていることに。リードなんて「JAVA」だもんね。

ジャズ用のマウスピースのいくつかを吹いてみると、その中に、僕が好きなミュールたちのサウンドの遺伝子が残っているのに気付くことがある。思うに、ミュールのころはマウスピースにジャズ用、クラシック用の区別はさほど画然としていなかったのではないかな。
クラシック用のマウスピースは時代とともに、より「クラシック的な」と思われる方向へと進化したのだが、その方向は果たして正しかったのかな。息の通りやすさ?豊かな音量?容易なコントロール?
マニュアル車愛好家が、オートマ車を唾棄すべきもののように言ってるのを聞くことがあるけど、マウスピースにも、もしかして共通するところがあるかも。

書いているうちに、何が言いたかったのか分からなくなってきた。
要するにですね、「楽器の進化」といいつつ、大切なものをごっそりそぎ落としてきた憾みがあるのではなかろーかということ。
それに気付かず、現状に満足しているうちに感性もツルンとしてきちまってるんじゃないかっていうこと。

っていうのも、なんか違うなー…。


2005/01/11(火)  リサイタル
ソロ・リサイタルを開きます。
お時間ありましたら、お出かけください。

3月27日(日曜日)
●開 演:14:00
●会 場:玉川学園チャペル
●前売り:一般2,500円/中学生以下2,000円
 当 日:一般3,000円/中学生以下2,500円

●曲目
ロベール・プラネル:ロマンティック組曲
ジョン・ウィリアムズ:ESCAPADES 〜 from CATCH ME IF YOU CAN
J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲第1番
フランツ・シューベルト/アルペジョーネ・ソナタ

詳しくは…
http://www.rakuten.co.jp/tucl/431000/444572/

なお、上記ページのプロフィールに
 雲井 雅人(ソプラノ・サクソフォーン)
となっておりますが、当日はアルトとテナー(バッハのみ)を使用する予定です。


2005/01/06(木)  どうなる
「ご案内」のページが、白いなー。どうなる、今年の「雲カル」…。

4月に新しいCDが出て、9月に定期演奏会をやることは決まっているのですが…。

去年の暮に出た、僕の「Saxophone meets Schubert」のCD、売れなかったらどーしよー…。

企業などから、表も裏も徹頭徹尾印刷のみの年賀状がたくさん届きます。
今までは「味気ないなー」と思っていたのですが、
「宛先のリストに僕の名前を載せてくださっているだけでも感謝しなくては」、と思う今日この頃…。


どうも、ちょっと休みが長いと、辛気臭いことを考えてしまいます。
完璧な正月ボケだ。
そろそろエンジンかけなきゃな。

今年もブイブイいわせて行くのココロ。


2005/01/01(土)  Where shall I run to?
午前零時の時報の親玉みたいのがやってきて、
年の変わり目を告げた。

いつもいつも、日の変わり目を無為にやり過ごしていると、
ほんのチョッピリずつ「罰金」がたまってくる。

毎年、年の変わり目には、やんわりと「取り立て」がやってくるのだが、
それを長年無視し続けていると、「取り立て」は徐々に厳しくなって、
やがて、「利子」も付いたりなんかして、どうにも逃げ切れなくなる。

「あー、逃げ場がない! オレは一体どこに逃げれば良いのだ?」

"Where shall I run to?"(マウンテン・ロード第二楽章のタイトル)の気分でございます。


今年も演奏を続けてまいる所存でございます。
何卒よろしくお願いいたします。


( 2005/02 ← 2005/01 → 2004/12 )


[ 管理者:管理者 ]


- CGI-Island -

Thanks to CGI-StaTion & 手作りCandy