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雲井雅人の「小言ばっかり」

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2005/03/31(木)  新しい年度が始まるデス
ついに明日から新しい年度が始まるデスね。
アチャコチャアチャコチャ走り回る日々がスタートです。

東京、埼玉、愛知と電車で移動しまくっていると、「とりあえず体だけは現地に運んで」という感じで、移動中は廃人同様の有り様のことがあります。
体はとりあえず現地にいても、魂は付いて来ていないみたいなこともあります。

それが今度は、移動しまくりが常態となると、家にいても魂は移動中のような変な感じになってくるとです。
変にそわそわして。

昔の武士が言った「一所懸命」という言葉は味わい深いですなー。


2005/03/17(木)  腹ふくるる
やっと開くことができました、「雲カル新年会」!
新年会というより「忘年度会」といったおもむきでした。
メンバーの多忙に加えて、プライベートに激動があり(引っ越し3件、結婚1件等)、なかなか顔を揃えることができなかったのだ。
テナー奏者の新婚家庭におじゃましました。

心配されたバリサク奏者のけがも大したことないようで、ひとまず胸をなで下ろした。
傷跡は痛そうだった。
アルト奏者は、雀荘に長時間こもっていたらしく、異様にヤニ臭かった。

やっぱり仲間はいいなー、と素直に思う。
アルコールも手伝い、音楽について生活について、腹蔵ない弁舌が飛び交ったのであった。
こういうコミュニケーションがないと、それこそ「腹ふくるる思い」で暮らして行かなくていはいけない。
それは精神活動の低下をもたらし、ひいては音楽にも悪い影響を及ぼすと思われる。
このメンバーでカルテットをやって行くことは、単に演奏のためだけではなく、僕の生活全般に対して深い意義があるのだと悟った。
カルテットをやっていないと、どこかが堕落(おおげさだけど)して行くようなのだ。

4月からの練習再開を期して散会した。


2005/03/14(月)  「ダ・ヴィンチ」
「のだめカンタービレ」を読んで、
「オ、オレももっと練習しなきゃ」という気になってきてホントに練習してマス。
けっこう単純なヤローです、僕は。

雑誌「ダ・ヴィンチ」の4月号が『のだめカンタービレ』大特集です。
思わず買ってしまいました。
「リアルのだめさん」の、チョーきたない部屋の写真が載ってます。
「あるある、こんな部屋」というような感じで、妙ななつかしさを覚えますデス。


2005/03/13(日)  形容詞を表現しすぎるな
「形容詞を表現しすぎるな」と、「物語・冬の旅」の演出家・松本重孝氏は、リハーサルのときいつも強調されていた。

たとえば、「美しい夢をみていた」というせりふで、
「美しい」をあまりに濃く表現しすぎると、聴き手はその言葉や表現方法そのものの方にとらわれて、
自分の心の中にその人なりの「美しい夢」を生成することができなくなってしまうということだと思う。

そして僕も多分そのような演奏が嫌いなのだな。
形容詞の説明がまとわりついてくるような表現が、鳥肌が立つほど嫌いなのだ。
「ここで感動してよね〜!」と流し目で訴えられると、逃げ出したくなる。
そういう演奏を聴くのは、僕にとっては「苦行」以外のなにものでもない。
長年、平気そうな顔をしてこの「行」をしていると、性格が練れてきます。
というのはウソで、鈍磨しネジクレてきます。

といいながらも、ついついやってしまいそうになるんだな、僕もこれを。
とても安直な方法であり、表現者はそこへ流れがちなのだ。
そういう自分がイヤになる。
またこのサックスという楽器も、全身を挙げてそこへなだれ込もうとする性質を持っているように思う(と、ちょっと楽器のせいにもしてみる)。

松本氏の演出方法は、「正しく感じること」によって導き出される表情が、演奏者自身の内側から生まれることを促すというものだった。
これは厳しい方法です。
僕などが、これを十全に実現するためには「演奏しないのが最良の表現」ということになりそうだが、そういう訳にも行かぬので、練習であがくことになるのです。
あーしんど。


2005/03/12(土)  50位デス!
私のCD「Saxophone meets Franz SCHUBERT 雲井雅人 あふれる歌へのオマージュ」が、
なんと!HMVの「トップ50 クラシック - 室内楽曲(売上)」にて、50位にへばりついております。
お買い上げくださった皆々様に感謝感謝です!

でも、多分あっという間に圏外に去ることでしょう。
記念に一度ランキングをご覧くださいませませ。

http://info.hmv.co.jp/p/c/s/c1g700s704.html


2005/03/09(水)  のだめカンタービレ
「のだめカンタービレ」というコミックにはまりかけてて、なんて言うと、すでに時流に遅れてんのかな。
音楽大学を舞台にした、「大爆笑学園クラシック・コメディー」と銘打っているが、読み方によっちゃけっこうシリアスな内容だ。
何巻もガバッとまとめ買いして(これを「大人買い」と呼ぶそうだ)、読みふけっとります。

勤務する大学の同僚にこの話をすると、「オレは原作者・二ノ宮知子の『講談社漫画賞』授賞式に、音楽関係の情報提供者グループの一人として出席した」と言うではないか。
「なぬーっ!」ってなもんだ。
その席で、主人公でピアニストの「のだめ」こと野田恵のモデルとなったお方にも会ったということで、うらやましいこと限りない。

一人でニタニタしながら読みつつも、登場人物たちの練習とか本番のこと、挫折、嫉妬、成長などの表現から誇張はちっとも感じない。
自分の音大時代もほとんどこの通りだったような気がする。
こんなに身につまされながら、漫画を読むのは初めてかも。
かつて音大生であり現在は音大の教師である身としては、さまざまなトリビアルなディテールにリアリティーを感じてしまうのだ。

その中でも、音大の教師連が主体性のない俗物として描かれていることが多いのに注目した。
まあ、ほぼそのとおりなんでございますがね、その彼らが、学生の素晴らしい演奏には素直に感動している描写があるのが救われる。
ほんとにいい演奏に対しては、レッスンだろうが試験だろうが、感動してしまうことがあるのは事実です。

ただね、音楽の感じ方には人それぞれ違いがあって、特に教師同士だとそのあたりツッコミにくい雰囲気があるわけです。
僕が「サイコー!」と感じた演奏に対して、ほかの教師から「あのテンポはないよねー」という感想を聞かされてがっかりしたり、逆に僕が「なんじゃこりゃー、やめてくれー」と感じた演奏に対して、「この子は将来絶対伸びる!」という賛辞をもらす教師がいたりするわけなのです。
こんなこたーザラです。

そのたびにガッカリしたりムカついたりはするんだけど、それも度が過ぎると無用なアツレキを生んで、自分が傷ついたり人を傷つけちゃったりするので、しかたなく徐々に「音大の教師らしい」態度を学習していくのですな。
軟弱っちゃー軟弱なんだけど。

そんなところまで、描いてあるのですよ、この漫画は。ニクイです。
もちろん、主題はそのようなところにあるのではなく、若者たちの成長に焦点が合わせられている。
まだ全部は読んでないのです。
これからどうなっていくのか、本当に楽しみっす。


2005/03/05(土)  打率
プロ野球のバッターは、コンスタントに3割打っていれば、強打者と呼ばれ、尊敬される。
2割5分ぐらいでも、一発があれば、もしくは確実に犠打が打てれば、貴重な存在として扱われる。

ガクタイにおいて「打率」という感覚はそぐわないかもしれないが、僕がひんぱんにオケのトラに行っていたころは(今は忙しくてあまり行けなくなってしまったのだ)、打率に似たような考えが頭の中を占めていた。
それも3割なんてものじゃなくて、10割が目標だった。

毎回演奏を成功(何をもって「成功」とするかは難しい問題だが)させないと、次にまた仕事の依頼が来ないのじゃないかという恐れがあったのだ。
現に、キャリアの最初のころに、あるオケで一度しくじって以来、金輪際そのオケからは仕事の電話がかかって来ないということを経験している。
だから、新日フィルが僕を常トラとして呼んでくれるようになってからは、本当に1回1回の本番を大切にした。

サックスは、木管セクションの端っこかホルンの隣に座ることが多いのだけど、その席にいるとオケマンたちのここ一番にかける緊張感と集中力がビリビリ伝わってくる。
それは本当にすごいものだ。
プロのオケで一つのポジションを占めるというのは、並大抵のことではないと強く思う。

僕も「音一発」のコワサがよく分かっているから、奏法について異常に口うるさいのだ。
これは、学生にいくら口で言っても理解してもらえない。
実際にオケ中に座ってドッと冷や汗をかかなければ、いつまでも太平楽でノホホンとしたまま、無造作に音を出し続けるだけなのだ。
このあたりのことを学生にうまく伝えることができないのが、悔しいところだ。


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