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雲井雅人の「小言ばっかり」

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2005/06/30(木)  発売延期
雲井雅人サックス四重奏団の新しいCD【チェンバー・シンフォニー】は、発売が9月に変更となりました。
お待ちくださっている皆さま、申し訳ありません。
必ず良いものをお届けします。

なお、現在廃版中となっている雲井のソロ・アルバム「ドリーム・ネット」も同時に再発売されます。


2005/06/24(金)  equipment
いま、新しいCD「チェンバー・シンフォニー」のブックレット原稿を作っているところです。
その中で、雲カルの各メンバーが使用している楽器や周辺装備を公開してみようと思って調査した結果が、以下のようなものです。
これらのほか、サムフック、サムレストは、銀製のものや銀に金メッキをかけたもの、ネックレシーバーのネジが銀製など、さまざまに凝ってみているようです。

雲井雅人
Soprano Saxophone : YAMAHA YSS-875G/F1R-GP Neck
Mouthpiece : Selmer S80-D
Reed : Vandoren Traditional 3
Ligature : WoodStone Copper

Alto Saxophone : YAMAHA YAS-875/G1-GP Neck
Mouthpiece : Selmer S90-180
Reed : Vandoren Traditional 3
Ligature : WoodStone Silver
Neck Strap : Neotech Classic

佐藤渉
Alto Saxophone : YAMAHA YAS-875G/G1-GP Neck
Mouthpiece : Selmer S90-180
Reed : Vandoren Traditional 3
Ligature : Vandoren Optimum(plate No.2)
Neck Strap : Brancher BRCS

林田和之
Tenor Saxophone : YAMAHA YTS-875/G1 Neck
Mouthpiece : Selmer S90-180
Reed : Vandoren Traditional 3 half
Ligature : BG Traditional lacquer
Neck Strap : Bois-Chaux f.Bird BE-BOP-CONFORT

西尾貴浩
Baritone Saxophone : YAMAHA YBS-62II
Mouthpiece : Selmer S80-F
Reed : Vandoren Traditional 3
Ligature : Rovner Eddie Daniels II
Neck Strap : Brancher


2005/06/19(日)  ブレーマンの練習曲
今ではさっぱり行かなくなってしまったが、昔はカラオケでよく歌ったものだ。
カラオケというものが流行りはじめた頃、ちょうど僕は大学生だった。
その頃のカラオケは、カラオケ・ボックスなどではなく、飲み屋のカウンターにカラオケの機械と歌詞カードが置いてあって(もちろん映像などない)、見知らぬ同士がちょっとテレながら歌ったりするものだったように思う。

あるとき僕は、そういうシチュエーションで演歌を歌っていた(演歌はわりと好きです)。
すると突然、隣で泥酔してカウンターに突っ伏していたかに見えたおっさんがむっくと起きあがり、「アンタの歌はよくないっ」とわめいたのだ。
「ちょっと貸せ」と僕のマイクを奪ったおっさんは、歌いはじめた。
その歌はドロドロでした。
だみ声のうえ、テンポはズレにズレ、音程もヒドイ。
だけど、何のためらいもなく歌詞の内容に感情移入して歌っていて、それはちょっと胸を打つものがあった。
負けた! と思ったね。

そこで僕はしばし考えた。
僕の歌い方はこうだった。
リズムや音程をはずさないように気をつけ、きれいな響く声で、歌詞の言葉ははっきりと。
つまり、ソルフェージュばかりを気にしてたんだな。
音大生ってのは悲しいねー、カラオケにまでソルフェを持ち込んじゃって、それで上手く歌えた気になっちゃって。
そう、僕のはリズム・音程・発声の単なる結合であって、「歌」になってなかったのだ。

サックスのために書かれたさまざまな練習曲、特にブレーマンの「20の旋律的練習曲」を音大のレッスンで学生が吹くのを聴いていると、ときどきあのときのことを思い出す。
つまらんのです、学生の演奏が。
あのときの泥酔したおっさん的に、わめきたくなるのです。
「これはホントはもっと楽しくてカッコイイ曲じゃないのか? 楽典を守って吹いていればいいってもんじゃないだろ!」
「もっと心から歌って! いま本気で歌わなくていつ本気で歌うんだ? それとも、名曲を吹くときは急に本気が出るのか?」
「この曲でギャラをもらうつもりで演奏してみろ」
「あー、聴いてると眠くなる」
わめきの内容は、いつも大体こんなところですね。
学生さん、スミマセン。

実はブレーマンは案外むずかしいデス。
ただ楽譜どおり吹くだけでは、単調で幼稚な旋律にしか聴こえない。
端正なスタイルはくずさずに、これをオペラの名旋律のように表現しようとするところに、この練習曲の目的があると思うのだ。

演奏者は、自分の力で、なんとか魅力的なメロディーを立ち上げなくてはいけない。
これは、現代音楽を演奏するときに特に必要な能力となる。
メロディーの勘所をつかまえるという点では、調性があろうがなかろうが、シンプルであろうが複雑であろうが、必要とされることは同じなのだ。
それができる人だけが、演奏家として生き残っていくことができるのだ。

最近、ブレーマンの練習曲は、これをやらせる教師も少なくなり、人気がなくなってきたように感じている。
たしかに単調で長い。強い個性もない。
時間もかかるので、聴く方の教師も大変だ。
元々コラエ性のない人間が、サックスという楽器を選んでしまうという傾向があるのではなかろうかと、僕は常々思っている訳だが(自分もその中の一人)、こういうじっくりした練習曲をやらなくなると、その傾向がもっとひどくなっていくのではないかと心配している。

いまのサックスの世界は、とかくバタバタしている。
でも基礎を学ぶ期間は、省略しない方がいい。


2005/06/16(木)  なにわCD
「なにわ《オーケストラル》ウィンズ2005」のCDが発売される模様です。
ご予約は下記、ブレーンのサイトで。

某所で、その一部を聴きましたが、かなり良いですぞ。

http://www.brain-music.com/japan/j_lineup_base.htm


2005/06/04(土)  ラッシャーとミュール
ラーションやイベールの曲のことを考えていると、それらの作品を献呈された、あるいは委嘱したシガート・ラッシャーのことに思いは至る。

先年、ユージン・ルソー氏からうかがった話:
シカゴで行われた世界サクソフォーン・コングレスにおいて、クラシック・サクソフォーン界の礎を築いた人たちを顕彰することになった。
そこにはマルセル・ミュール、阪口新などとともにラッシャーも名を連ねていた。
功労者たちはみなステージ上で表彰状を受け取ったが、ひとりラッシャーだけは名前を呼ばれても椅子から動こうとはしなかった。
プレゼンターの一人であったルソー氏は、客席にいるラッシャーの傍らまで行って表彰状を手渡そうとしたが、彼は腕組みしたまま受け取ろうとしなかった。
しかたなく、ルソー氏はラッシャーの腰掛けている椅子に、それを立て掛けた。
そのイベントが終わり人々が去った会場では、ラッシャーの椅子の傍らに表彰状だけが残されていた。

このストーリーを語ってくれたルソー氏は涙目になっていて、そのときの無念さを思い出しているようだった。
このストーリーは、いったい何を意味しているのだろう。

僕は高校生の時、中島敦の「山月記」という作品が好きだった。
主人公の李徴は、「性、狷介」、「自ら恃むところすこぶる厚く」、「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」、「碌々として瓦に伍することもできなかった」というふうに描かれている。
これを初めて読んだとき、「これはまるでオレのことを言っているのではなかろうか」などと思ったものだ。
今でも、その感想はほぼ変わらない。
性格というのは、なかなか変わるものではない。
「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという」なんて、実にその通りだ。

文名を上げることもできず、虎という異形の姿に成り果ててしまった李徴と違い、ラッシャーは、演奏、作品委嘱、教育の面で偉大な業績を上げ、後世に大きな影響を与えている。
特に、フラジオ音域の開拓は特筆すべき点である。
しかし寡聞にして、その生涯が現在まとまった形で伝えられているとは思われぬ。

イベールはミュールの進言を受け入れて、「コンチェルティーノ・ダ・カメラ」のフラジオ音域を「8va ad lib.」としてオクターブ下で奏しても良いように書き直した。
そして、ミュールはこの作品の名演奏で名を上げた。
これが、ラッシャーが委嘱した作品であるにもかかわらずだ。
今では考えられないアバウトな話だ。
その「8va ad lib.」が、この作品の演奏を容易にし、名曲としてポピュラーならしめている一つの要因であろうと思う。

対して、ラーションの「コンチェルト」は、素晴らしい内容の作品であるにもかかわらず、そのあまりにも演奏困難な高音域のために、ポピュラリティーを持ち損ねたものと、僕は考えている。
マルタンの「バラード」もしかり。
ラッシャーが委嘱にかかわったいくつかの作品は、同じような運命をたどっているようだ。

「記譜のオクターブ下で吹くなんて、男の沽券にかかわる」とラッシャーが言ったかどうか知らないが、彼の得意技であったフラジオのために難曲となってしまっている作品は多い。
「高く張られた綱の上で不器用なダンスを踊るより、地上で美しく舞った方が良いだろう」とミュールが言ったかどうか知らないが、彼には現実的な選択ができる柔軟性があったのだろう。

ラッシャーとミュール、この二人がクラシック・サクソフォーンの「中興の祖」であったことは、ほぼ間違いない。
後に続く世代は、無意識のうちにもこの二人の精神をアウフヘーベンしようとしているとも見える。
真の意味でそれに成功した奏者が、現代の巨匠と呼ばれるのではないだろうか。


2005/06/03(金)  Marcel Mule
マルセル・ミュールのCDを聴いています。
「Marcel Mule "Complimentary"」 (Green Door GD-2012)
「Marcel Mule Historical Recordings」(Green Door GDCS-0006)

改めてその音楽性に深く感動する。
自分の中のその感動は、ミュールのレコードを初めて聴いた18歳のころのものと共通するところもあり、異なるところもある。
巨匠に対する単なるあこがれだけではなく、同業者としての聴き方も混ざってきたと言おうか。
その演奏をただ不思議に思うだけでなく、その上手さにリアリティを感じることができるようになったと言おうか。

そんなことより、僕がちょっと動揺してしまったのは、この録音が行われた年代についてだ。
1953〜54年 (Complimentaryの方)。
ミュールは1901年生まれだから、このとき52〜3歳だったということになる。
今の僕より年上です。
この録音に聴くミュールの演奏は、どう考えても「上り坂」の人のものだよ。
すごいです。

・・・「忸怩たるものがある」とは、このようなときに使う言葉だろうね。


2005/06/01(水)  ラーション
ラーシュ=エリク・ラーションのサクソフォーン・コンチェルトが、今年の管打楽器コンクールの本選の曲に選ばれている。
ラーションというスウェーデンの作曲家の名前を初めて知ったのは、我が師ヘムケの家でだった。

秋の新学期のころ、ノースウエスタン大学のヘムケ・クラスの新入生歓迎行事があって、一日先生と一緒に遊んだ。
その日、昼はみんなで公園でソフトボールをして、夕方は先生の家の庭でバーベキューをした。
晩ご飯をご馳走になったあと、先生の書斎兼プレイルームみたいな部屋で、ワイワイとゲームなどして楽しんだ。
サッカーゲーム(手でバーを回すヤツ)や、なんやかや色々置いてあったけど、もう20年以上も前のことなので思い出せない。

そこでヘムケが、オープンリールのテープレコーダーで、自分の演奏したラーションのコンチェルトの録音を聴かせてくれた。
ニュージーランドのオケとの演奏だと言っていた。
その演奏を聴いて僕は、ワナワナするほど感動してしまった。
第2楽章の表現の雄大さなどは、言葉では言い表せないほどだ。
フラジオはincredible だった。
ものすごくカッコよかった。

ヘムケはその容貌や名前から察することができるように、家系のルーツは北欧にある(と本人が言っていた)。
だから、ダール(北欧系アメリカ人)、ペッテション、ラーションなど北欧ものをやるとき、特に素晴らしいのだと思う。
実演やレコードを通して聴くヘムケの演奏からは、親しみやすさよりも、孤高の精神性みたいな音楽を感じさせることが多いと僕は思っている。
ラーションの演奏は、まさにその象徴のようだった。

余談ではあるが、そのとき一緒に部屋にいた同輩や下級生の連中はゲームに夢中で、ギャーギャーうるさいことこの上なかった。
僕は心底腹を立てて、「君たち、ここにこんな素晴らしい演奏が流れているというのに聴かないなんて、なんて無礼で無神経なんだ! それでもヘムケの弟子か」と怒鳴りつけたくなったのだが、英語でなんて言えばいいのか分からなくて、その気持ちをグッとこらえた。
次の日、学校の廊下でそいつらに会ったとき、「last night、君らは非常に impolite で insensitive であったぞよ」と、前の晩に調べた単語を使って食ってかかったことを覚えている。
彼らは面食らっていたけど。

僕は、いつか自分もこの曲をやるんだと心に決めた。
しかし、ヘムケの家で録音を聴いたときの感動が大きすぎて、自分でやってみようとすると、いつも深く幻滅するのだった。
思うに、僕はこういうところがいけない。
ある作品をとても好きになると、逆に自分から遠いもののように感じてしまう傾向があるのだ。

ちかごろ、何となくできそうな気がして、また楽譜を引っ張り出してさらってみている。
気のせいか、以前よりは吹けるようになっている感じがする。
っつーか、そんな悠長なことばっかりグダグダ言ってないで、一丁やってみろってんだよ!と自分を叱っているところだ。

というわけで、今年中にどこかで本番を作って、この曲をやってみたいと思っている。


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