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雲井雅人の「小言ばっかり」

( 2005/08 ← 2005/07 → 2005/06 )


2005/07/25(月)  チケット販売開始
「雲カル第4回定期演奏会」のチケット販売を開始しました。
皆さまのご来場を、団員一同、心からお待ちしています。
主催者である「レックス」のコンサート情報ページをご覧ください。

http://www.keller.co.jp/rex/top.html

プログラム前半は、ソナタ形式をきちんと踏んだ、古典的な楽章構成のサクソフォーン四重奏曲を2曲、ガッツリとお聴きいただきます。
かたやイギリス楽壇の巨匠、かたや目下売り出し中の年少気鋭の日本人作曲家。
作風は当然のごとくまったく異なりますが、何とどちらも美しい和声進行を持つ「調性音楽」です。
かなりハイ・カロリーな時間になると思われます。

後半は、ポップス色の強い「ギリシャ風組曲」から始まり、元ロック・ミュージシャンという経歴を持つエストニアの作曲家トゥールの「哀歌」を演奏します。
これは、実に不思議な音のする作品です。
そして最後に、1挺のヴァイオリンのために書かれた至高の作品「シャコンヌ」を、4本のサックスのために編曲してお届けします。
編曲の伊藤康英は、この仕事に相当入れ込んでいたことが、関係者から伝わってきています。
これまた、ハイ・カロリーな時間になると思われます。

【PROGRAM】
●リチャード・ロドニー・ベネット:サクソフォーン四重奏曲(日本初演)
  I. Vivo
  II. Andante lento
  III. Molto allegro

●西澤 健一:サクソフォーン四重奏曲(委嘱初演)
  I. Allegro vivace
  II. Menuetto
  III. Andante
  IV. Molto allegro

       **************休憩**************

●ペドロ・イトゥラルデ:ギリシャ風組曲
  カラマティアノス〜ファンキー〜ワルツ〜クレタ

●エルッキ=スヴェン・トゥール:「哀歌」〜サクソフォーン四重奏のための (日本初演)

●J.S.バッハ/arr.伊藤 康英:シャコンヌ(編曲委嘱初演)


2005/07/20(水)  ふるさとのテレビに出演(いささか旧聞に属す)
NHK富山放送局5月9日夜放送、イブニングアクセス富山

松井治伸キャスター:「インタビュー、この人にアクセス」、今日はサクソフォーン奏者の雲井雅人さんです。雲井さんは日本を代表するサクソフォーン奏者で、演奏のかたわらふるさと富山で後進の指導にあたっています。先日レッスンのため富山に帰った雲井さんに、演奏や後進の指導にかける思いをうかがいました。

《VTRスタート》
松井:一般的にサクソフォーンっていうと、ジャズのイメージがありますけど。
雲井:そうですね。
松井:クラシックのサックスというのは、ジャズとはだいぶ違うんですか?
雲井:そこは難しいところで、同じ楽器で吹いてますから…。
松井:あ、楽器は同じ?
雲井:ちょっとスタイルが違うだけで、一つの音を伸ばすときも、たとえばクラシックだったら(吹いてみる)こういうふうに澄んだ感じできれいに吹くところを、ジャズの場合はもっと自由なスタイルでこういうふうにやってみたり(吹いてみる)。
松井:なるほどずいぶん違いますね、やっぱりね。
雲井:吹くときのスタイル、気持ちの持ち方っていうか、そういうもので出てくるものが違うという…。同じ道具で同じ人が吹いてもずいぶん違うという…。

松井:(ナレーション)雲井さんは48歳。富山市の旧大久保中学時代からサクソフォーンを始め国立音大を卒業。日本音楽コンクール第3位入賞。オーケストラの団員として小澤征爾など世界の一流指揮者のもとで演奏するかたわら、ソリストとしても活躍しています。そんな雲井さんが今取り組んでいるのが、サックスでバッハやシューベルトなどの名曲を演奏することです。

雲井:もともとクラシック音楽が好きというのは、バッハやベートーヴェン、シューベルトそういう人たちが好きだっていうところから入ってますから、自分の楽器が新しいサックスっていう楽器であっても、好みまで変わるってことはないんですよ。だから、どうしてもオリジナルのサックスのために書かれた新しい曲だけやっていると、欲求不満になってくるんですね。
松井:サックスが誕生した頃、それこそ大好きなバッハやベートーヴェン、モーツァルトはもうこの世にはいなかった?
雲井:いなかったんです。
松井:それってどうですか?クラシックが好きな立場とすると。
雲井:バッハの場合はどんな楽器でやっても、その作品の生命が損なわれるということはないような気はしています。ですけど、古典派ロマン派の作品になってくると、サックスでそんな曲をやっていいのかなっていう少しためらいがあるんですよね。それで、自分のためだけに最初はやっているんです、人の前でやろうとかじゃなくて。
松井:あ、自分のために?自分が吹きたいから?
雲井:そうです。練習しているんですよね。それで、そのうちシューベルトが吹ける音になるんですよ。
松井:へえー。
雲井:あまりおかしくない音、そうなってきたら、じゃ人前でできるかなと。

松井:(ナレーション)雲井さんが今もう一つ取り組んでいるのが後進の指導です。演奏活動の合間を縫って、ふるさと富山に通って指導を続けています。この日は自分の母校の高校生たちを教えました。
雲井:(指導シーン)サックスってすぐ音が出るけど、その先の「響かせる」っていうところまで行くのは大変なんだよね。

松井:(ナレーション)この日雲井さんは、一息で長く音を伸ばすロングトーンをやって見せました。音はまったく揺れません。サックスは簡単に音が出せるからこそ、ムラのない澄んだ音を出す大切さを教えたのです。

松井:レッスンを拝見していて、盛んに音色のことをおっしゃってましたですね。そこは一番のポイントですかね。
雲井:やっぱり音楽を楽しもう、演奏を楽しもうとしたときには、音色が美しいということが一番大きい要素で、あのー変な言い方ですけど、自分の「武器」ですからね。どういう音色で、どのように響かせて、どういう風に表現するか、もう表現といってもその元になる音が美しくなければ耳を傾けてもらえないですから。そこのところが、やっぱり自分にとってこだわりがあるところですね。
松井:ずいぶん違うもんですね、同じ音出しても。
雲井:こう、ホンのちょっとしたくわえ方の違いで(吹いてみる)。
松井:全然違いますね!
雲井:そうなんですよ。この微妙なところを練習の中でつかんでほしいと思いますね。
松井:はあー。
雲井:だけども、ただ順々と練習して行けば上手くなれるかって言ったらそうでもなくて、芸事の世界ってコワイ面がありますからね。どっかで自分で大切なことに気がついて大きく羽ばたかなきゃいけない時期があるんですけども、そこはね、教えようと思っても教えられないんですね。
松井:そこは自分、本人の…。
雲井:何かをつかむというのは、自分でつかむしかないんですね。
松井:雲井さん自身もそういうことをやってこられたということですか?
雲井:そうだ…、ということになりますね。(終わり)

《VTRあけ》
松井キャスター:(コメント)ふるさとに帰って少しでも自分の技を伝えたいという思いでいらしてるんですけども、ホントに音色がキレイなんですよ。そばで聴くとホントにキレイだなーとほれぼれするような音でしたですから。その雲井さんが高校生のアンサンブルに入りますと見違えるようになる。それでもって今度は高校生の音色も変わってくる。触発されていくんですね。いやー、違うもんだなーと思いましたね。


2005/07/12(火)  大室勇一先生
48歳になって数ヶ月が過ぎた。
いつの間にか、師の年齢を超えてしまった。

大室勇一門下の者にとって、この48歳というのは気になる数字かもしれない。
先生は、47歳の半ばでこの世を去られたからだ。

大室勇一(1940年10月30日〜1988年7月3日)
埼玉県生まれ。東京芸大を経て同大学院修了。在学中に安宅賞を受賞。フルブライト留学生としてイーストマン音楽学校およびノースウエスタン大学に学ぶ。イーストマン・ウィンド・アンサンブル首席奏者を務めた。
訳書に「サクソフォーン21レッスン(ティール著)」「サクソフォーン演奏技法(ティール著)」「管楽器奏者のためのアンブシュア(ポーター著)」、著書に「サクソフォーン教本」がある。バンド関係の出版物への執筆も多い。
東京芸大、国立音大、埼玉大、洗足学園大、尚美学園で講師を務めた。
日本で現在活躍中のサクソフォーン奏者の多くが、大室勇一に師事している。

「こんな頭のいい人にはこれまで会ったことがない」というのが、初対面の印象だった。
僕はそのころ東京で浪人していて、向学心に燃えてはいたが、世間知らず恥知らずで口のきき方も知らない田舎者でコンプレックスのかたまりのようなヤツだったので、大室先生と普通の会話をするということだけでも、脳みそを総動員してかからねばならなかった。
レッスンは「心理戦」とも言える雰囲気で、厳しい言葉はそうないものの、自分の至らなさを自然に悟らされるという感じだった。
ひとりの大人(それも非常に感性豊かな大人)に、4年間、週1回、45分間のレッスンのあいだみっちりと対峙するという経験は、音楽大学に進んでいなかったら持てなかっただろう。
親兄弟にはけっして見せることのない感情のやりとりを、レッスン室では行なうのだ。
その意味で、大室先生は僕にとって今でもかけがえのない特別な存在だ。

先生はレッスン中、あまり楽器をお吹きにならなかった。
演奏活動も、キャリアの始めのころを除き、ほとんどなさらなかった。
教えるのに忙し過ぎたのだ。
国立、芸大、埼大、尚美、洗足の5つの学校で講師を務めていた。
たくさんの受験生が地方からホームレッスンに来ていた。
「しばらく吹いてないと歯並びが変わっちゃって、思ったように吹けない」とこぼしていらっしゃったのを思い出す。
レッスンのあとは、たいがい学校近くの飲み屋で宴会だった(国立に限らずよその学校でもそうしていたに違いない)。
僕は先生と色々な話ができるのが楽しく、それが当たり前だと思っていた。
しかし、今考えればいくら何でも飲み過ぎだった。

大室クラスの酒の飲み方は、飲み会初心者だった田舎者の僕には、これが普通なのだろうと思われたのだが、大人になってみると実はかなり特殊なものだったことが分かった。
ご自宅での宴会ではしばしば仮装大会(女装、インディアン、各種カツラなど)が催された。
それらはたいがい写真撮影されていて、現在有名になっているプレーヤーの恥ずかしい姿がどこかに保管されてあるはずだ。
泥酔は普通。
飲み会では、酔って馬鹿なことを平気でできるヤツがエライという風であった。
でも、そんな中でも先生の「寸鉄人を刺す」ような言葉は光っていたように思う。
みんなで先生のご自宅で朝まで飲んで、先生はそのままホームレッスンをされるというようなこともあった。
「五七五七七」とか「物語ゲーム」という、言ってみれば「連歌」のストーリー版のようなゲームは必ずといっていいほどやった。
内容は、(みんな酔っているので)大体において小児的なエロ、スカトロ満載のものとなり、出来上がったハチャメチャなストーリーを無理やり音読させられる学生がかわいそうだ、と言いながら参加者は誰もそれを止めなかった。

1988年8月に神奈川県川崎で開催された、第9回ワールド・サクソフォーン・コングレスの実行委員長として、大室先生は準備段階で大きな役割を果たされた。
僕が垣間見たのは、何十人もの海外のプレーヤーとの出演交渉に関する手紙のやりとりであった。
外国からの窓口として、この膨大な量の仕事を先生はほぼ一人でこなされていた。
音大で教えて帰宅してから、いつも深夜に及ぶ仕事だった。
僕も何度かお手伝いしたことがあるが、デリケートな手紙の文面は難しくて、ほとんどお役に立てなかったように思う。
コングレスは、遺されたサクソフォーン協会員たちの非常な努力によって絶大な成功を収め、このことにより日本のサックス界は一期を画した。
しかし、先生はそれを見ることなく他界された。

先生、いくら何でも先生は働き過ぎでしたよ。
先生、いくら何でも先生は飲み過ぎでしたよ。
いま先生と同じ年まわりになってみて、僕はそのことを痛ましさとともに思い起こす。
周りの誰もそれを止めることはできないのだということも、今ならよく理解できる。
仕事も酒の量も、当人が自分で決めて、自分で実行するしかないのだ。

僕はノースウエスタン大学への留学から帰ってしばらくのあいだ、大室先生と不仲だったことがある。
原因は、まず僕がジュネーブ国際コンクールに通って生意気盛りだったから。
もう一つは、先生の「子離れ」みたいなものだったんじゃないかと思っている。
大室門下のプレーヤーたちは、しばしばこれを経験しているのではなかろうか。
僕が学生のころ、先生が「あいつは最近急に生意気になった。以前はいいヤツだったのに!」と憤慨されるのをしばしば聞いたものだ。
自分もその対象になったのだ。
何も分かってない田舎者が手取り足取りでここまで導いてもらっておきながら、コンクールに通って急にいっぱしの事を言いはじめたのが、片腹痛かったのかもしれない。

僕と先生は、その後きちんと和解をした。
横須賀の街を歩きながら、さまざまなことを話し合った(なぜ横須賀だったかは忘れた)。
けど、肝心なことはあまり話さなかったようにも思う。
なんとなくわだかまりは解けて、またもとのようにいろんなことを脳みそ全開で話ができるかなと思っていた。
それから、先生が亡くなるまでの日々の記憶はあまりない。
自分のことで忙しかったし。
亡くなるなんて思ってなかった。

そのときは、共通の師であるヘムケに早く電報を打たなきゃという思いが強くあって、病名の「白血病」を辞書で調べたら、英語で「leukemia」というのだと知ったときの「なんて透明な語感なのだろう」と感じた不思議な気持ちが、今でも心に残っている。

あれから17年も経つのか。


2005/07/08(金)  ラッシャー絡み
僕が今さらっている曲が、シガート・ラッシャー絡みのものばかりだということに気付いて、なんだか驚いている。

■アレクサンドル・グラズノフ「協奏曲」=ラッシャーに捧げられている。あさって10日、亜細亜大学吹奏楽団サマー・コンサートでソロを吹く。
■ラーシュ=エリク・ラーション「協奏曲」=ラッシャーに捧げられている。9月、国立音大サックス・アンサンブル定期演奏会で、ソロを吹く。
■ジャック・イベール「小協奏曲」=ラッシャーに捧げられている。管打楽器第1次予選コンクールの課題曲なので、さらっている。

さらう予定の曲:
■ウォーレン・ベンソン「エオリアン・ソング」(小協奏曲の第2楽章)=ラッシャーに捧げられている。来春ソロ・アルバムをレコーディングする予定なのだが、この作品を入れるつもり。
■フィリップ・グラス「サクソフォーン四重奏のための協奏曲」=ラッシャー・サクソフォーン四重奏団の委嘱により書かれた。来年2月、雲カルが尚美学園大学管弦楽団と共演の予定。

やる予定はないが、昨日買った楽譜:
■ヴィクトル・ウルマン「スラブ風狂詩曲」=ラッシャーに捧げられている。オーケストラとオブリガート・サックスのために書かれた作品。
ウルマン(1898-1944)は優れた作曲家であったが、第2次世界大戦中にアウシュビッツでナチスによって殺害された。
最近、その生涯と作品に再び光が当てられるようになったようだ。

ラッシャーはその長い演奏家としての生涯を通して、主に非フランスの非凡な作曲家にコンタクトを取り、次々と作品を委嘱していたのだということが想像される。
グラズノフ、ラーション、ベンソンの作品を演奏しているときの僕の心の充実感を思うと、ラッシャーには深く感謝しなくてはならない。
そして、彼の生涯をもっとよく知った方が良いのではないかと思う。


2005/07/06(水)  私はこの世に忘れられ
9月29日の雲カル・リサイタルで、エストニアの作曲家エルッキ=スヴェン・トゥールの「哀歌」をやることになっている。

1994年に、バルト海でエストニアのフェリーが沈没して800人以上の人が亡くなるという海難事故があった。
「哀歌」は、この大惨事をきっかけにして書かれたのだと言う。
作曲家はそのフェリーに乗船するはずだったが、事情が変わって延期したことにより難を逃れたのだと言う。
この作品をリサイタルのプログラムに加えようと決めたときに、僕はそういった経緯はいっさい知らなかった。
作曲家は、聴衆が作品を聴くときにこの情報は必ずしも必要ではないと述べている。
しかし、ここでは「死」というものが創作のきっかけになっているのは確かなことだ。

事ここに至って、気付いたことがある。
単なる偶然だろうが、今まで雲井および雲カルの取り上げた作品には、「生と死」にまつわるものが多いような気がするのだ。
そして、それらの作品たちは、みな特別な魅力を放っている。
暗い気持ちになるどころか、演奏することを通じて力づけられさえする。

マズランカ「マウンテン・ロード」=「人はみな死すべきもの」という大きなテーマの上に成り立つ。
マズランカ「ソング・ブック」=親しい出版人の死を悼む楽章を含む。
生野裕久「ミサ・ヴォティーヴァ」=家族が病に臥せったときの回復への祈り。
スティラー「チェンバー・シンフォニー」=セントヘレンズ山の大噴火で亡くなった火山学者の話をきっかけに書かれた。
ナイマン「トニーへの歌」=作曲者の親友の突然の死を悼んで書かれた。
プスール「禁断の園へのまなざし」=イタリアの作曲家ブルーノ・マデルナの死を悼んで書かれた。
シューベルト/伊藤「物語・冬の旅」=失恋して墓場に迷い込む若者。自立への模索。
バッハ/コダーイ「3つのコラール前奏曲」=ああ我らが人生とは何ぞ、天にまします我らが父よ、我らを救い給うキリスト
ヴィヴァルディ/林田「まことの安らぎはこの世にはなく」=読んで字のごとし。

そして、十数年前に出した僕のデビュー・アルバム「雲井雅人サクソフォーン・リサイタル」(廃盤)にもそれはある。
マーラー作曲のリュッケルト歌曲集より「私はこの世に忘れられ」。
よりによって僕はこの曲を、楽しかるべきデビュー・アルバムのプログラムの最後に置いた。
そのせいか、僕はこのCDを発売したあと何年かのあいだ、世間から忘れられたような状況になっていた(ホントは一種の「燃えつき症候群」みたいな状態に陥って、表現意欲が失せていただけ。自分が悪い)。
歌詞は一見、諦めの境地のようにも読めるが、同時に自分の内面を大切にして行こうとする態度も感じられる。
「ドロップ・アウト」という意味では、「山月記」主人公の李徴とも似かよったところがある。
もちろん僕はこんな隠者のような生き方はできないが、共感は充分できる。
そのような気持ちが、上記のような作品たちを選ばせるのだろうか。
歌詞の内容は以下のようなものだ(雲井の自由な訳)。


 「私はこの世に忘れられ」 フリードリヒ・リュッケルト

私はこの世から忘れ去られた
思えばくだらぬ時間をそこで過ごしていたものだ
人々が私のことを話題にしなくなってかなりの時が経つ
もう死んだものと思われているんだろうな

そんなことは私にとってどうでもいいことだ
死んだと思われていたっていいさ
それに対して声高に何かを言うつもりもない
世間的にはほんとうに死んだも同然なのだから

この騒がしい世の中では私は死人でいるしかない
静かな隠れ家で私はやっと息をつく
私はこの場所でひとり生きていくのだ
私だけの楽園の中で、私だけの愛の中で、私だけの歌の中で


( 2005/08 ← 2005/07 → 2005/06 )


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