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雲井雅人の「小言ばっかり」

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2005/11/16(水)  管打コン2次審査終わって
ま、これぐらい書いてもかまわんだろ、ということで書くんだけど…

「管打コン2次審査終わって、心底ホッとしている」。
なぜホッとしているかというと、2次で演奏した19人全員が気合いの入った演奏をしていたから。

楽器演奏技術の巧拙により、クラシック音楽的素養の深浅の度合いにより、さまざまな傾向の演奏があった。
しかし課題曲についていえば、この新参の楽器で古典のシューベルトに迫る姿勢が、おざなりなものではなく、本質的な部分で自分と作曲家との接点を見つけようとしている点で、傾聴に値するものが多かった。
今回の課題曲に「アルペジョーネ」を選んだことは、意義深いことであったとの思いを強くした。

また、それぞれの選択曲は難曲ぞろいであるにも関わらず、全てよくさらってあることがわかる演奏ばかりだった(つまり記念受験的な気持ちでいた人は2次のラウンドにはいなかったということだもちろん1次予選通過しなかった人たちの中にもホントに素晴らしいと感じた人も多かったのだけど人によって音の好き嫌いはあるのは当然だし時の運としか言いようのない如何ともしがたい何かがあるのだなこのコンクールというものにはなにしろ1次で15分の1にしぼるなんてことがそもそも)。
キレイ事で言うんじゃなくて、僕はそれぞれの演奏から何らかのメッセージを受け取った。
「みんな上手くなったのね」と、素直に思ってしまう。

クモイ的には、おのれの演奏家としてのレゾンデートルの有無の確認作業を、あるとすればどこら辺にあるのかということの再考証を、コンクールが終わり次第ただちに開始せねばならぬと思わされるほど、刺激的なラウンドだった(平たくいえば、ビビったということ)。

僕は本選でラーションの素敵な演奏を聴きたい!
このコンクールのあと、この曲を引っさげて在京メジャーオケの定期に堂々と出てくる人が現れるのを期待しているのだ。
この曲には、それだけのパワーがあると僕は信じている。


2005/11/13(日)  「ザ・サックス特別号」の紹介ページ
「アルソ出版」のサイトから、「ザ・サックス特別号」の紹介ページに行くことができます。
http://www.alsoj.com/

とてもオシャレな作りになっていますので、ぜひ一度ご覧ください。
読み込みに多少時間がかかりますが、僕の演奏を聴いていただくこともできます。


2005/11/06(日)  刷り込み
すり-こみ【刷(り)込み】
鳥類や哺乳類の生後ごく早い時期に起こる特殊な学習。その時期に身近に目にした動く物体を親として追従する現象で、鳴き声やにおいもこの学習の刺激となる。他の学習と異なり、一生持続する。刻印づけ。インプリンティング。(大辞林による)


いまの若いサクソフォニストたちの耳には、誰のどんな音が刷り込みされているのだろう。

僕の場合は、中学生のころは、まずサム・テイラー。
高校になってから、ルソー、ミュール、デファイエ、ヌオー(ギャルドレピュブリケーヌ四重奏団)。
浪人および大学生になっては、ヘムケ、ロンデックス、シンタ、その他たくさんの奏者の音を大学の図書館で聴いた。

結局、クラシックのサックスの音として僕が「刷り込まれた」のは、ミュールの音だ。
レコードでその音を聴いたときに「これが本当にサックスの音なのか!」という驚きがあった。
その瞬間に刷り込みがなされたのかもしれない。
デファイエとヘムケの音も、ミュールからの流れの中で、深く共感することができた。
彼らの音になぜそれほど魅かれたのだろう。
その理由は分からないが、彼らの音を好きになる土壌が僕の心の中に準備されていたところに、出会いがあったのだと言うしかない。

辞書にも「他の学習と異なり、一生持続する。」とあるように、自分の心の中の「刷り込み」の部分は、変えられるものではない。
それだけに、いまの若いサクソフォニストや音大生たちの耳には、誰のどんな音が刷り込みされているのか気になるのだ。
そもそも「刷り込み」に相当することが、あるのかないのか。

ミュールをもう一度良く聴いてみてほしい。
それからその弟子たち(デファイエ、ロンデックス、ヘムケ、ルソーなど)の演奏を聴いてみると良い。
その次の世代は、奏者の数においてもスタイルにおいても、一気に百花繚乱の様相を呈する。
すばらしく刺激的なCDや、興味深い内容のコンサートも枚挙にいとまない。
しかし、ミュールをもう一度良く聴いてみてほしい。
古い時代の演奏は、スタイルも古臭いと感じるかもしれない。
でも、僕にとっては実に魅力的なのだ。

ヒンデミット作曲「アルト・ホルン(またはアルト・サックス)とピアノのためのソナタ」の第4楽章冒頭に、「ポストホルン」と題された対話形式の詩のようなものが置かれている。
それをここに紹介しておきたい(雲井意訳)。


ポストホルン(ダイアローグ)

 ホルン奏者:
電線に封じ込められた稲妻ではなく、
疾駆する馬のギャロップで速度というものをカウントした時代、
生き方や知識を求めて、びっしり活字の詰まったページを読み漁るだけでなく、
国中を自分の足で歩きまわった時代。
ホルンの響きというのは、私たちのあくせくした魂に
 (まるでとうに萎れた花の香りのような、
 色あせてカビくさいタペストリーのひだのような、
 黄ばんでぼろぼろになった古い大きな本のページのような私たちの魂に)、
そういう時代から届く響きのようではないか。
この「豊饒の角笛」の贈り物は、私たちの内に、
青ざめた憧れとメランコリックな思慕を呼び起こすのだ。

 ピアニスト:
古いものは、ただそれが昔のものだから価値があるわけではないし、
新しいものも、それが私たちと同時代だから素晴らしいわけでもない。
実際に自分の手で確かめたり深く納得したりすること以上に
人間にとって、大きな喜びがあるだろうか。
君のすべきこと、それはこの混乱と大騒ぎと雑音だらけの中で、
永久不変の、穏やかで、意味深いものをしっかりと掴まえることだ。
そして、それに新たな意味を付与しつつ、大切に保持して行くことだ。


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